体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

いのちに目覚める ―「怪しげな本」と出会って ―

今、書棚から『超念波 ー運命開発の最高峰ー』という書物を引っ張り出してきました。なにやら怪しげなタトルの本です。表紙には「死人が蘇生、子宝に恵まれる、選挙は必ず当選・・・」などと記されていて、いかがわしさが漂っています。

妻は、雑多に本が並んでいるわたしの書棚を見るたびに、「くだらない本はブックオフに売ってしまいなさい」と言います。この本は、妻が書名を見たら、間違いなく「売却指定」するであろう本です。

ですが、わたしはこの本を、昭和62年に購入して以来、35年間売却することなく、書棚に大切に保管してきました。

著者は古内栄一。ペテン師、ニセ霊能者ではありません。井上日召の弟子で小学校の教師をしていた人です。昭和史に詳しい方はご存じでしょうが、井上日召は、テロ集団、血盟団の盟主として、昭和7年に前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長・團琢磨(だん たくま)の暗殺を指導した人物です。

茨城県大洗町立正護国堂の住職をしていた日召は、徹底的に唱題をしていました。弟子の古内も、日召から「南無妙法蓮華経とは何か? 解るまで命がけで唱え抜きたまえ」と言われ、師の日招と同様に全身全霊でお題目を唱えました。

わたしは井上日召を狂気の人だと思っていましたが、弟子、古内の本を読んで上記のような事実を知り、さらには日召が理性的で私心なく、慈悲心のある人物であったことを知り、驚きました。

古内は師の日召の下で血盟団事件に関わり、刑務所に入ることとなりますが、そこでも、まさに命がけで唱題をしました。その結果、古内は独居房の中で、ついにお題目の正体が解ったといいます。

「何もかもお題目だ。手も足も、寝台も壁もいや全宇宙がお題目ではないか。私は寝台の上に端座して、静かに《南無妙法蓮華経》を声なき声で唱えてみた。ああ本当に気持ちがいい。まるで重い肩の荷が降りたようだ」

古内がお題目の正体が解って欣喜雀躍し、狭い独居房の中を跳ね回ったときの思いを綴った文です。。

南無妙法蓮華経は表面的には「妙法蓮華経に帰命します」という意味だが、その真実は本仏(永遠のブッダ)のいのちそのものである。

それが日蓮聖人の教えですが、古内はこのことを、頭でではなく、唱題する中で体解したのでした。

わたしは、前回の記事『幸福ってなんだろう?』で「万物は本源のいのちの現れである」と記しました。「本源のいのち」は「本仏のいのち」と呼んでもまったく差し支えありません。

「本仏のいのち」は、《南無妙法蓮華経》に他ならない。南無妙法蓮華経と唱えることは、その「本仏のいのち」と一つになることである。

古内はこのように実感したのです。わたしも同様に感じていますが、35年前に古内の本を購入した時は、このことがよく解りませんでした。今は「全宇宙がお題目ではないか」という古内の言葉に深く頷くことができます。

わが修行の師、斉藤大法上人は「お題目さま」と言われることがあります。お題目・南無妙法蓮華経に「さま」を付けるのは、一般的に言えば変かもしれません。ですが南無妙法蓮華経が「本仏のいのち」であるなら、「さま」を付すことが首肯されるでしょう。

わたしが、『超念波 ー運命開発の最高峰ー』を長年大切にとっておいたのは、よく解らないながらも「何か重要なことが書いてあるようだ」と感じたからと言ってよいと思います。

わたしは唱題をしてきて、次のような思いでいます。

偉い人も偉くない人も、病気の人も健康な人も、豊かな人貧しい人も、だれもが本仏のいのちの現れである。だれの心の中にも、こんこんと涌き出るいのちの泉がある。この泉の水は、本仏のいのち。唱題でこの泉とつながる時、永遠に渇くことはなくなり、平安と喜びの中で生きることができる。

本仏のいのちの他は、無常なるもの。必ずいつかは消えていく。だが本仏のいのちは、永遠に消えることなく在る。であるがゆえに、本仏の現れであるわたしも、在りて在るものである。

唱題が深まれば深まるほど、この思いは深まっていきます。

さて、『超念波 ー運命開発の最高峰ー』には、さらにお伝えしたい、にわかに信じがたい内容も書かれてあるのですが、このことは、また別の記事で記すことにいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福ってなんだろう?

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昨日、東横線自由が丘駅のホームでのことです。白い杖を持った目の見えない10代の男の子が母親であろう女性の手を握って、笑顔で楽しそうに話をしているのを見かけました。

男の子は、明るくて前向きなき雰囲気をまとっていました。目が見えないという自分の境遇を受け入れて、精一杯生きているように感じました。

わたしの教え子で「僕は人生で三回も大きな失敗をし、生きていくのが辛いです」と暗い顔で言う高校一年生がいました。三回の大きな失敗とは、小学校、中学校、高校と三回受験し、そのどれも第一志望校への合格を果たせなかったというものでした。

視覚障害者でありながらも、明るく生きている少年と、三回の受験の失敗を引きずって、暗い顔で生きている少年。幸福ってなんだろうと考えていると、この両者のことが頭に浮かびました。

障害があってもなくても、第一志望校に受かっても落ちても、今ここに、誰もが「いのち」として在ります。いのちの無い人はいません。このいのちそのものを慈しみ輝かす生き方。幸福な生き方とは、そのようなな生き方ではないでしょうか。白い杖をついた少年は「いのち」を輝かせて生きているように感じられました。

先日、出かける途中、道端に咲いているタンポポの花を見かけ、その後、花屋の店頭で鉢植えの蘭を見かけました。それぞれが、一つの「いのち」として、いっしょうけんめい咲いていました。そのいのちに価値の高下はありません。ですが人は、タンポポは金銭的に何の価値もない小さな花、蘭は高価で立派な花であると見なしています。

ですが、それは人間が勝手に付けた価値。いのちそのものに価値の高下はありません。人は、健康であるかないか、身体に障害があるかないか、学歴があるかないが、容姿が美しいかそうではないか、経済的に豊かであるかそうでないか・・・そのようなことで価値づけをして、価値あるものを持っているのが幸せ、持ってなければ不幸と感じて生きています。

困難に遭遇した時、「いのちがあるだけで丸儲け」とか「失敗しても死にゃあしない」と言って、自らを勇気づけている人がいます。確かにそう思えば生きる力が涌いてくるでしょう。いのちより大切なものはありませんから。

ですがそのような人が病に罹り、医師から「あと数か月しか生きられません」と宣告されたら、その状況についてどう思うのでしょうか。「死にゃあしない」とは言えません。

「寿命」、「生涯」という意味で、わたしは「いのち」と言う言葉を用いていません。「万物を生かしている根源的な力」「ただ一つのよりどころ」それがわたしの言う「いのち」です。このいのちは、死んで無くなるものではありません。肉体を失った後も永続します。このいのちに目覚めれば、肉体の死に臨んでも「死にゃあしない」と言い切れます。生きる力が涌いてきます。

万物は、この「いのち」の現れである。唱題修行をしていて、わたしはそのように感じるようになりました。この「いのち」は、「本源のいのち」と表現してもよいものです。

「本源のいのち」とは、仏教の言葉で言えば「空」です。「空」は多くの仏教書で「実体のないこと」と解釈されています。ですがわたしは、万物を万物たらしめているエネルギーと言ってもよい「本源のいのち」こそが空であると解釈しています。

『般若心経』の「生ぜずして滅せず、垢つかずして浄からず、増さず減らず」は、「空」すなわち「本源のいのち」がどのようなものであるのかについての説明です。

「空」すなわち「本源のいのち」は、「~である」と断定できず、「~ず」と否定でしか言うことができません。『法華経』ではこのことを「一切の語言の道(どう)断(た)え」(「安楽行品第十四」)と言っています。どんなに言葉を尽くしても正確に表現する道が断たれているのが「空」すなわち「本源のいのち」であるというのです。

法華経』には「諸法(あらゆる存在)の空であることを聞きて、心大いに歓喜し」(「薬草譬品第五」)という言葉もあります。これは本源のいのちに出会った喜びを言ったものです。(これを「諸法が実は実体がないということを聞いて」と解釈したのでは「それで大いに歓喜することはないだろう」ということになりますよね)。

わたしたちは、「いのち」の上に乗っかった様々なこの世の価値観を重視して生活しています。健康でありお金があるのはありがたいことです。健康、お金の価値は大切にすべきものでしょうが、健康もお金も、いつ失われるか分からないものです。ですが病んでも貧困状態になっても、永遠に失われることのない「本源のいのち」とつながっていれば、常に喜びの中に生きることができます。

三回受験に失敗した少年は、学歴という価値観を握りしめて、生きる力を弱らせていました。いっぽう、目の見えない少年は、健康(五体満足)という価値観に縛られず、生きる力を輝かせているようでした。私には、彼が「本源のいのち」とつながった素敵な生き方をしているいるように見えました。

この世の価値観を認め、かつそれに縛られず、「空」すなわち「本源のいのち」とつながって生きる。そのような生き方をすることが幸福であると感じています。

「本源のいのち」とのつながりを強めていくのが唱題です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さまざまな祈り・祈りの仲間

 

 

祈りは特定の宗教を信じていていなくてもできます。分子生物学者の村上和夫博士は、神仏をサムシング・グレート(何か偉大なるもの)と表現されていますが、そのような存在に、よいことが起こるように願うのが祈りであると言ってもよいでしょう。

祈りには何かを願わない祈りもあります。「感謝の祈り」はその一つです。親鸞聖人のお念仏はこの祈りです。お念仏を称えようと思ったその時、すでに人は阿弥陀如来に救い取られている。そう親鸞聖人は説かれています。親鸞聖人のお念仏は、すでに救い取られてあることへの感謝の祈りです。

ですので、親鸞聖人の宗旨、浄土真宗の供養は、先祖が浄化してしていくことを、願うのではなく、お浄土に往って仏と成った先祖を誉め称える「讃嘆供養」です。

それから、思いの力によって現実を創る「想念の祈り」といったものもあります。「わが願いはすでに叶えられたり」と完了形で念じるのがこの祈りです。この「祈り」を「意宣り」と書き表すこともあります。

105歳まで生きられた医学博士の塩谷信夫氏が創始した正心調息法は、呼吸法を伴った、想念の祈りです。

正心調息法では、吸息と呼息の間、数秒ないし10秒くらい息を止めて下腹部に力を入れ、病気の我が子の健康回復を願うのなら、「我が子が健康になった」と念じ、元気に活動している我が子をイメージします。

道元禅師は「思いが強ければ、その願いは必ず叶う」と言われました。思いに力があることは、古来、多くの人が認めています。

ちょっと怖い話をします。いわゆる拝み屋さんの呪詛の祈りは「想念の祈り」です。呪詛を生業(なりわい)とする人は、「どうかA子が不幸になりますように」と願う祈りはしません。「A子は、すでに闇の中にあり。A子は不幸になった」と完了形で断じて念じるのです。「A子が不幸になりますように」という祈りは、拝み屋さんという祈りのプロにとっては、中途半端な力のないものでしかないのです(ちなみに現代の日本にも拝み屋さんは実在しています)。

さて、わたしは唱題による祈りをしていますが、これはどのような祈りなのでしょうか。昨日、唱題をしたあと、こんな歌が浮かびました。

唱うれば おのずと個我の 壁破れ ただみほとけの いのち現る

「おのずと個我の 壁破れ」というのは、「男性で僧侶で64歳のこのわたしが頑張って」といった自我意識が自然と超えられていくということ。

すると、姿かたち・名称を超えた、仏性そのものである、わたしが現れてきて、それが永遠の仏陀と一つになって南無妙法蓮華経を唱えているようになる。それが「ただみほとけの いのち現る」です。

わたしは世界の平和を願っています。ですが唱題の祈りに入ると、戦争で傷ついた人の痛みを感じたり、ある為政者に憤りを覚えたりしながら平和を願っいる私の自我意識を超えて、わたしのとても深いところにある意識が永遠の仏陀と一つになって祈っていることを感じ(観じ)るようになります。

あるキリスト者が「私ではなく、私をとおして神が祈っていらっしゃる」と言っていましたが、このキリスト者の感覚は唱題に通じるものがあります。

自我意識を否定するつもりはありません。否定はしませんが、他者との比較の中で、えばったり傷ついたりしたしている、わたしの自我には、現実を大きく変容させる力はないと感じています。

この無力なわたしの自我を超えて、南無妙法蓮華経と一つになったわたしが唱えるのが、日蓮聖人の唱題であると感じています。

唱題の祈りでは、祈りの最中は何も願いません。ですが、自我を超えたこの祈りは強い力を発揮します。

強力でありながら、この祈りによって自分や世界を不幸にすることはできません(みほとけと一つになつて祈るのですから当然ですね)。安全な祈りです。

想念の祈りは一歩間違えると自他を傷つけてしまう危険があります。それゆえ、塩谷博士はご自身が創始した想念の祈りの名称に「正心」を冠したのでしょう。

 

横浜の「よみうりカルチャー」というところで「法華経のこころ」という講座を持っています。

教養講座ですので、受講に際して信心といったものはなくても、まったくかまわないのですが、なぜか「お題目で祈りたい」という思いを持った方が集まっていらっしゃいます。

わたしは、唱題による祈りを皆様に強要するつもりは、まったくありません。どのように祈るか。または祈らないか(「祈りなど気休めに過ぎない。行動こそが大切だ」と言う方もあるでしょう)。それは各自が主体的に決めることです。

そう思っているのですが、自然と今、唱題による祈りの仲間が増えつつあります。祈りの仲間が増えるのは、大変に心強く、ありがたいことです。

祈りの生活を多くの方たちと共にすることができるのは、なにものにも代えがたい喜びです。

 

 

 

 

 

 

永眠を願っている方への残念なお知らせ

死んだ人を「仏さん」と言うことがあります。死ぬことを「成仏する」と言うこともあります。仏とは一切の執着から解き放たれた存在。では死んだらすぐに、その仏に成ることができるのでしょうか。そうであるのならよいのですが。

死とは、永眠。夢も見ることもない永遠の眠りだと考えている人も多くいます。だとすれば、なにかに執着する思いも、みな消えてしまうのですから、それは成仏と同様なものであると言えるかもしれません。

九十歳で亡くなった母が「死んだらどうなるのかしら」と私に訊くことがありました。

「肉体が無くなっても『わたし』という意識は残っている。ぼくは、仏道修行をしてきてそう確信している」

わたしは、この答えをどれほど繰り返して母に言ったか知れません。それは母は認知症を患っていて、10分前に自分がした質問を忘れてしまうからでした。

わたしが「死後も人は生きている」と言うと、こんな会話が繰り返されました。

「まあ、そうなの、だったら先にあの世に行った人たちと会うことができるかもしれないわね。よかった」

「でも、孫が病気にでもなれば、あの世から大丈夫かしらと心配し、僕が失敗をしでかしたら、やきもきしているということもあるかもしれないよ」

「それもそうねえ」

「ひょっとしたら、永眠の方が楽かもしれないよ」

 

さて、永眠を願っている方には、残念なお知らせがあります。「死後の生」を肯定する医師や科学者が近年増えているのです。

脳神経外科医のエベン・アレグサンダーはその一人です。アレグサンダーは、自らの臨死体験を通して、臨死体験は決して脳が生み出した幻覚ではないということを詳述しています。関心のある方は、彼の著書『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』をお読みになってみてください。

欧米では170年以上も昔から、真摯な死後の生についての科学的な研究が行われてきました。名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、コナン・ドイルは、この研究に強い関心を示していた、高名なスピリチュアリストです。

スピリチュアリストとはスピリチュアリズムを人生の基盤としている人のこと。スピリチュアリズムとは、死後も人の個性は存続し、その個性と交流することは可能であるという立場をいいます。

今の日本の浅薄な「スピリチュアル」とは異なって、欧米は、長きにわたって、真摯に死後の生の可能性を探求する科学者を輩出してきました。タリウム元素の発見などで世界的に名を知られているイギリスの化学者、ウィリアム・クルックスやノーベル賞を受賞したフランスの生理学者、シャルル・リシェはその例です。

 

母は一昨年の12月に亡くなりましたが、わたしは母の葬儀を終えた直後、霊的な知覚能力を持つ、いわゆる霊能者と呼ばれる男性と会う機会がありました。彼は、会話中に、鉛筆で一枚の女性の顔を描いてわたしに示しました。

「この絵の方が、今あなたの傍にいます。お母さんですね」

その絵の顔はわたしの母にそっくりでした。彼には母が死んだこと話していませんでしたし、彼は母に会ったことはなく、母の写真を見たこともありませんでした。

続けて彼はこう言いました。

「お母さんがご自分の葬儀の時、会葬者の一人一人のところに行って、ありがとうございますと頭をさげているのが視えました。律儀な方だったのですね。あなたがお経を読んでくれているのを見て、嬉しそうにしていましたよ」

たしかに母はそのような人でしたし、わたしは心を込めて母に読経しました。

この話をどう取るかは読者にお任せしますが、わたしにとっては「やはり死後も人は生きているのだ」と改めて実感した貴重な体験となりました。

その後、わたしの修行の師、斉藤大法上人と唱題をした時に、大法上人はこう言われました。

「今日は、小島上人のお母さまがおいでになっていたようですね」

その時の大法上人の唱題の声は、澄んで女性的で、穏やかなものでした。唱題によって母は安らぎをえたのだろうと感じました。

誤解なきように申し添えておきますが、大法師は霊能者でも霊媒でもありません。唱題の声が変わるのは、妙法の成せるわざであるのです。そこには一念三千の法というもののはたらきがあるのですが、詳しいことは、また別の記事で記すことにいたします。

霊能力に憧れて大法師の下で唱題をしても、霊能力は一切つきません。霊媒にもなれません。このことを付記しておきます。

死が永眠であるのなら、死後のたましいを慰霊し、浄化を祈念する供養は必要のないものとなります。遺族の心を慰め整理するするためには必要であるかもしれませんが。

ですが、わたしは、死とは永眠であるとは思えません。みずからの唱題中に亡き人の思いを感じることもあります。そして亡き人のたましが、すぐに浄化して仏と成ることは、ほとんどないとも感じています。

これからも修行を深め、僧侶として、たましいの救済と言うこともできる、たましいの供養を、さらにさせていただきたい。そうわたしは願っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしって何?

僕って何だろう?。そんな疑問を持った中学生の男の子がいました。

「お母さん、僕って何なの」

「あんたは、わたしの子。男の子で○○中の生徒でしょ。そんな当たり前のことを聞くなんて、あんた、どうかしちゃったんじゃないの」

「お母さん、それは僕の性別と所属で、ぼくそのものじゃあないよ」

「それはそうだけど・・・。そんなどうでもいいこと考えてないで、はやく宿題をやってしまいなさい」

この男の子の抱いた「わたしとは何か」という疑問は、仏教の世界では、決して「どうでもよいこと」ではありません。最も大切な疑問と言ってもよいでしょう。わたしとは何か。このことを見究めることを「己事究明(こじきゅうめい)」と言います。

いったい「わたし」とは何なのでしょう。無から生まれて、百年ほど生きて、また無の世界に消滅していく存在なのでしょうか。だとしたら、悠久の歴史のなかで、夜空に一瞬輝いて消える、打ち上げ花火のような、はかない存在が「わたし」だということになります。

法華経は、わたしたちの本質は仏と異ならないと言います。であるとすれば、本当のわたしは、形とか名称を離れ、生死を超えた永遠のいのちであることになります。これは、にわかには信じ難いことですが。

法華経は、「あなたたちは本来、仏なのだ」というメッセージを発しています。「あなたは仏」これはわたしたちすべてに向けられた、法華経の最重要メッセージです。

あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、何回も失敗をしでかして、六十数年わたしは生きてきました。自分に愛想をつかしたこともあります。自分の本質が仏であるなどとは簡単には思えませんでした。

ですが、唱題をしていると、腹の底からこんこんといのちの水が涌出て来るような感じがするようになりました。

地位とか経済状況とか容姿とか肉体いった、いつかは失われる、この世的なものを超えた、生き通しの大いなるいのち。それが「わたし」であると、唱題をしていて実感されはじめたのです。

「僕って何だろう」という疑問を持った中学生の男の子。それは実はわたしでした。

この疑問を持った後、仏教と出会って、「人の本質は仏である」という教えを知りました。ですがそれは、ただ頭で知っただけのこと。ようやく最近、唱題の深まりに伴って、このことがたましいで得心できるようになった気がします。随分と時間がかかりました。

とは言っても、相変わらず、わたしは妻と口喧嘩をしたり、机の脚に足をぶつけて「イテーッ」と叫んだりしています。

ですが唱題をしているときのわたしは、日常のわたしではなく、それを超えた、内なる御仏(みほとけ)と一つになったわたしです。

わが唱題は日常の我(われ)が唱える唱題にあらず。我が内なる仏が唱える唱題なり。

それが唱題中の感覚です。

24時間、唱題時と同様のモードでいられたらよいのですが。道はどこまでも続いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがたいお説教」をしないオンライン仏教講座 開講のお知らせ

たいがい、長い話をすると嫌がられます。教員時代、わたしの話は長いので有名でした。

生活指導部主任として、始業式や終業式などで、壇上で生徒に話すことがありましたが、わたしの長い話は不人気ではありませんでした。それは「ありがたいお話」をしなかったからだと思います。ありがたいお話というのは「命を粗末にしてはいけません」とか「思いやりを大切に」といったお話です。

生徒から逆に教えられた話とか、わたしがズッコケた失敗談などを話していました。

僧侶となって、法話の後「今日は誠にありがたいお話をしていただき・・・」などと言われると、「どうやら面白くない話をしてしまったようだ」と反省をします。

「ありがたいお話」というのは、だれもが当然と思っている道徳的な話であることが多いものです。法要で「亡くなった、あの優しかったおばあちゃんに感謝しましょう」と僧侶が言って反発を感じる人はいないでしょう。でも大方の人は内心「ハイハイ、わかりました。お説教は短めに」と思っているようです。「ありがたい」ではなく「胸に染み入る」お話をするのは難しいものです。

 

オンライン仏教講座をはじめました。Zoomを通して行うマンツーマン講座です「ありがたいお説教」はいたしません。カリキュラムのない講座です。講座内容は受講者と話し合って決めます。受講回数、受講する日時も相談のうえ決定します。

 

人は皆、異なった環境のなかで異なった課題(問題)を抱えて生きています。受講者の直面している課題を仏の智慧と慈悲の光で照らして、その先へと進むことを目的とした講座です。受講者のプライベートな質問にお答えすることもありますので、他者と一緒に受講する形式の講座にしませんでした。

仏教の基礎を学び、それを日々の生活のなかで役立てたいという方も歓迎です。

すでに受講されている方もいます。詳しいことをお知りになりたい方はメールでお問合せください。メールアドレスは、当ブログ・プロフィール中の「このブログについて」にあります。

会ったことのない僧侶とZoomで話をしようと、一歩を踏み出すのは、ちょっと勇気の要ることでしょうか。でも、そのちょっと勇気のいる一歩が、あなたを変えるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

勝れた仏教瞑想 ー日蓮聖人の法華三昧ー

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「優れた仏教瞑想 ー日蓮聖人の法華三昧ー」というタイトルを見て「それってどんな瞑想なの?」と興味を持たれたの方もあるのではと思います。

三昧(さんまい)は、瞑想を意味するインドの言葉「サマーディー」の中国語訳。法華三昧は妙法蓮華経法華経の正式名称)にもとづいた仏教瞑想です。

現代の瞑想の多くは、心の健康を得たり、仕事の効率を上げるために行われています。確かに瞑想でそのような効果を得ることができます。

しかし仏教の瞑想の目的はそこにはありません。その目的は仏と成ること。すなわち限りない慈悲と智慧そのものとなることにあります。まずこのことを明確にしておきたいと思います。そうしませんんと、仏教の「瞑想」が「迷走」となってしまいかねませんので。

法華経の文字は六万九千三百八十四文字(実際に数えたことはありませんが)。昔の書物を読むと、これをすべて暗誦(あんしょう)できた、持経者とよばれる法華経の修行者がいたことが分ります。ひょっとしたら、現代にも法華経のすべてを暗誦できる修行者がいるかもしれません。

天台宗の法華三昧は、法華経・観普賢経という経典を読んで真理を観ずること。また、その境地に達するために、法華経などを読誦(どくじゅ)することを言います。法華経全巻を暗誦できなくともよいのでしょうが、これもなかなか大変なことです。

日蓮聖人の法華三昧に入るのにも、法華経のすべてを暗誦できなくとも、スラスラと読めなくてはなりません・・・ということはありません。

昔は文字の読めない人がいましたし、法華経の教理がよく理解できない人も多くいたことでしょう。日蓮聖人の法華三昧は、そのような人たちにも開かれたものでした。

記憶力が劣っていても(現在のわたしがそうです)問題ありません。日蓮聖人の法華三昧は万人に開かれた道です。

さて、その実践ですが、それは、いたってシンプルなものです。たたひたすら南無妙法蓮華経とお題目を唱え続けるだけ。唱題が日蓮聖人の法華三昧です。

「なんだ、それならばわたしも日常やってますよ」そうおっしゃる方もあるでしょう。ですが、南無妙法蓮華経を唱えることイコール法華三昧ではありません。

妙法蓮華経は、法華経の正式名称ですが、それは単なる経典名ではありません。日蓮聖人は、妙法蓮華経は、永遠の仏陀のいのちそのもの、宇宙根源の法である言われれました。それと一つになるのが唱題による法華三昧です。

妙法蓮華経、永遠の仏陀と一体となって南無妙法蓮華経を唱えるのが日蓮聖人の法華三昧なのです。

初心のころ、わたしは五分の唱題も苦痛でした。長時間の唱題行ともなれば、それは我慢大会以外の何物でもありませんでした。慣れるにしたがってそのようなことはなくなりましたが、唱題中の思いは、作成途中の期末考査の問題と一体となったり、ビールと一体となったりしていました。

今は唱えると同時に、わたしが唱えるお題目は、わたしを通して御仏(みほとけ)が唱えるお題目であると感じられ、お題目は、はからいを超えて、腹の底から涌き出てきます。

法華三昧の唱題には深い浅いがありますが、それはどれも永遠の仏陀と一つになった唱題です。

さて、では三昧に入っていない唱題には意味がないのでしょうか。日蓮聖人は、妙楽大師という方の次の言葉を首肯されています。

「散心(心が集中できていない状態)でもよいので法華経を誦’(とな)えなさい。三昧に入って精神を統一する必要はありません。座る立つをえらばず、一心に法華を念じてさえおればよいのです」

ここで言う「一心に」は、「常の散漫心の一つとしての一心で」ということで、「統一された心で」という意味ではありません。「法華を念ずる」とは、法華経の一巻、一字、一句、題目などを、経文の文字数の多少に拘わることなく誦えることを言います。

この言葉は、唱題がどこまでも深まって三昧となることを否定しているのではありません。日蓮聖人は、お題目の修行は決して難行ではなく、どのような人をも受け入れ、救い取るものであるということを示されているのです。

お題目は、どのようなお題目でも尊いということであるのですが、日蓮聖人は、仏となるためには、以下の二点が肝要であると言われています。

*一念信解(いちねんじんげ)=仏の寿命が永遠であることをほんのわずかでも信解す     ること。

*初随喜(しょずいき)=法華経を聞いて随喜(心からありがたく感ずること)の心を 起こすこ。

この二つの心があれば、三昧には至っていない、初心のお題目を唱える人も、漏れなく御仏(みほとけ)の救いのなかに入っている。それが聖人の教えです。

唱題は精神の健康をめざすマインドトレーニングではありません。一念信解、初随喜の心を持ち、不自惜身命(自分の身体も命も惜しまない)で御仏を恋慕する心をもって、仏の世界に目覚めていくのが唱題の道です。

唱題によって癒され、やすらぎを得るのはすばらしいことです。ですが唱題はそこで止(とど)まるものではありません。その先に、永遠の仏陀と一体となる法華三昧の世界が広がっているのです。このような道筋を知っておくことも大切であると思います。

唱題が法華三昧となると、唱題で他者を、さらにはあの世のみたまをも癒し浄めていけるようになります。これは他の仏教の三昧とは異なった、日蓮聖人の法華三昧が持つ優れた特性です。このことについては、改めて別の記事で触れることにいたします。

4月17日、「世界を癒す24時間お題目リレー」で対談と唱題をしました。その様子は要唱寺のHPで視聴することができます。

当ブログ・プロフィール中の「このブログについて」をクリックして、さらに「ウエブサイト」をクリックすると要唱寺のHPに入れます。よろしければご覧ください。

唱題はどこまでも深まっていきます。自分の唱題を顧みると、いつも未熟さを感じずにはいられません。精進してまいります。