神様になった武将
神社には、人が神様として祀られていることがあります。乃木神社の御祭神は乃木希典陸軍大将、東郷神社の御祭神は東郷平八郎元帥海軍大将です。東郷元帥は、神道の神となりましたが、篤信の法華経の信仰者でもありました。
この両者は近代の軍人ですが、安土桃山時代から江戸時代にかけて生きた武将が神様として祀られているのを御存じでしょうか。この武将は東郷平八郎と同様に法華経の信仰に生きた人物で、加藤神社という神社に祀られると共に寺院にも祀られています。
その名は加藤清正。清正公大神祇(せいしょうこうだいじんぎ)として、多くの日蓮宗の寺院に祀られています。
冒頭の写真は、東京都港区白金台にある日蓮宗・覚林寺の清正公堂です。覚林寺は「白金の清正公さま」と呼ばれて、地域の人たちから親しまれています。
覚林寺は電車を利用して自宅から片道40分ほど。昨日、参拝をしてきました。
明治期に成立した国家神道は、大日本帝国を揺るぎのないものとするための支柱でした。神道には「武神」「軍神」という言葉があります(香取神宮、鹿島神宮の大神は軍神として尊崇されてきました)。近代の軍人が神として祀られているのは、その流れにあると言えましょう。
仏教の神は、六道輪廻の世界のトップに位置する存在で、明王、菩薩、如来という仏の世界の存在の下に在ります。天部の神々と呼ばれ、毘沙門天、弁財天、大黒天などがその例です。
清正公は戦国武将が信仰した毘沙門天と同様、パワーのある天部の神として祀られています。そういえば、覚林寺の境内には毘沙門天堂もありました。
仏教には、荒々しい存在も、仏の教えを守護する神として包み込んでいくという伝統があります。
天部の神は、衆生にもたらすご利益に得意分野があります。清正公は勝負事についてご利益をもたらしてくださると言われていますが、白金の清正公さまは、受験生が合格祈願で参拝することも多いようです(受験も戦いと言うことができるでしょう)。
わたしは、今、何か勝負をしようとしている事があるわけではありません。ただ、清正公大神祇と感応道交(神仏と人との気持ちが通い合うこと)したいと思い、参詣し、唱題しました。
自己の無明を打破し、全身全霊で唱題をするのには、ぶれずに集中する力が要ります。清正公大神祇と響き合い、そのお力をいただけた気がします。
境内の毘沙門天堂の前でも唱題をしましたが、そこでも腹の底から湧き上がってくるような力強さを感じさせていただきました。
山門で感謝の合掌をして、参詣を終えました。
今生を生きる
「来世があります」。そう言うと、こんな疑問が寄せられることがあります。
,「来世があるという前提で生きていると、困難に出会った時、「来世で頑張ればいいや」と思って、一所懸命生きることから逃避してしまうことになりませんか」。
実はそうではありません。仏教の因果の理(ことわり)から言うと、今生で何を為したかで次の生が決まります。
学生が「社会人になってから頑張ればいいや」といって学生時代を怠惰に過ごして、社会人としての良きスタートを切れるでしょうか。それと同様です。
来世があるとしても、この時代にこの名前で生きた人生は一回限り。二度と同じ人生を歩むことはできません。そういった意味でも、今生を慈しんで、精一杯生きることは大切でしょう。
日蓮聖人は、弟子、信徒に次のような意味の注意をうながしています。
「今生に生を受けながら、つまらないことに執着して、大切なことを忘れているのではありませんか」
大切なことというのは「死んだ後もある」ということです。
わたし自身、唱題をしているときを除いて、かなりつまらないことに執着しています。妻に言われた一言が気にくわなくて数時間、不機嫌でいたりします。
日常生活の場でも唱題モードでいられるよう精進あるのみ。そう思っています。
葬儀に出仕してきました
今日は、お世話になっている横浜・蓮馨寺の葬儀に出仕してきました。故人は96歳の女性で、法華経を篤く信じていた方でした。
90歳を超えてもお元気であったとのことです。ご遺族は悲嘆に暮れるといったご様子ではなく、穏やかに故人を見送られたように感じました。
たしか白隠禅師であったかと思いますが、正月に信徒から「何かめでたいことを書いてください」と言われて、次のように書いたといいます。
「親死に、子死に、孫死に」
「正月早々から、縁起でもない」と信徒が文句を言うと、禅師は「歳の順に人が死ぬのは、めだたいことじゃ」と言ったといいます。
わたしの母は、一歳で我が子(わたしの弟)を亡くしています。母の前に子が亡くなるのは、本当に辛いことです。
今回の葬儀では、すべての子や孫が故人をあの世に送ることができました。わたしが今日の葬儀が穏やかであったと感じたのは、そのせいでもあったのでしょう。
言葉を超える
「海外異文化体験」で夏休みに、生徒を引率してオーストラリアの高校に行き、研修したことが何回かあります。普通は校長が団長になるのですが、ある年、校長に所用ができて、私が団長となったことがありました。
団長は、全校生徒や教員の前でスピーチをする機会が何回かあります。わたしは、国語科の教員です。流暢な英語は話せません。一緒に引率した若い英語の教員二名のどちらかに通訳を頼んでもよかったのですが、ヨレヨレの英語でスピーチしました。
いずれは海外の仏教者と交流したい。そんな願いがあったので、英語のスピーチに挑戦したのです。
生徒はオーストリアの家庭に一人でホームステイします。わたしもホームステイするか、打診を受けましたが断り、ホテルでひとり暮しをしました。一般家庭の中で英語を使って生活するのは、わたしにとっては、あまりに大きなストレスであったからです。
帰国して「言葉を使って不自由なく意思の疎通をはかることができるのは何と有り難いことなのだろう」としみじみと思いました。
小学生が日常生活で会話するレベルなら、外国語を修得するのは、そう困難なことではないでしょう。ですが自在に使いこなすということになると、これは大変なことです。
あちらの学校では、オーストラリア人の日本語教員に「つつむ」と「くるむ」はどう違うのかと質問されました。幸い英語ではなく日本語で訊かれたので、日本語で丁寧に返答できました(確か「赤ちゃんを毛布でくるむのはOKですが、毛布でつつんだら、窒息して大変なことになりますよ」といった話をしたと思います)。他にも「のぼる」と「あがる」など、微妙な違いのある日本語はたくさんあります。
仏教に関して言えば、和訳した経文を読んでも、理解するのは困難です。『法華経』には「空」という言葉が、ひんぱんに登場しますが、これを単に「空」と言って済ませてしまったのでは、経典を理解することはできません。
さて、ここまでは言語によるコミュニケーションの話ですが、釈尊の目覚めの内容を言葉で表現するのは言語道断のことです。日常では、言語道断は「とんでもない」、「もってのほか」という意味で使われていますが、仏教では「根本的な真理が言葉で説明し尽くせないこと」をこう言います。
釈尊の目覚めをわがものとするためには、言葉を超えていかねばなりません。そのためにあるのが仏道修行です。わたしは唱題という仏道修行を行じています。
修行者同士は、言葉が通じ合わなくとも、相手の力量が分るものです。本気で唱題修行している人は、私の唱題を聞けば、わたしの目覚めが深いか浅いかが、瞬時に分かってしまうはずです。これはある意味で恐ろしいことです。
この記事を書き終えたら昼寝をしようかと思っていましたが、ウカウカしていられません。御宝前で唱題をすることにします。
仏教の森に迷う
初心のころ、「仏教の森は深く、用心して足を踏み入れないと、道に迷うことになるぞ」と先輩の仏道修行者から言われたことがあります。
本当に、わたしは道に迷いました。初期仏教の教えに出会って、日本仏教の教えとの違いの大きさに戸惑い、日本仏教の世界の中でも、家の宗旨である浄土真宗からスタートして、複数の宗派をさまよってきました。
しかし、実際には、わたしのように、仏教の森で迷い、さまざまな宗派を遍歴してきたた僧侶は、ほとんどいないと思います。それは日蓮宗の寺院に生まれれば、日蓮宗の世界で生きることに疑問を持つことは、まずないからです。寺院に生まれた子弟が、生家の寺院と異なる宗派の寺院の僧侶となったという話は聞いたことがありません。
在家でも、伝統仏教の篤信者のほとんどは、生家の菩提寺の宗派の信仰を引き継いでいます。
ですが浄土真宗を篤く信心する家に生まれながら、十代の頃から法華経に帰依して、家族の反対を押し切って日蓮宗の僧侶になった方を、わたしは一名だけ知っています。
そういえば宮沢賢治も、浄土真宗の家に生まれながら、僧侶にはなりませんでしたけれど、法華経に深く帰依した人でした。
わたしは、純粋な信仰を持ち続けた、このお二人を尊敬しています。
このお二人と違って、わたしは、本当に仏教の森で迷ってきました。中学時代に親鸞聖人の教えが説かれている歎異抄に感動して涙し、その後すぐに、親鸞聖人が唱えることがなかった般若心経を暗誦し、禅を組み、弘法大師の密教に惹かれて不動明王の真言を唱え、ようやく法華経に落ち着きました。
法華経一筋に歩んできたら、もっと法華経への信がふかまったのではと思う反面、これでよかったのだという思いもあります。
それは様々な宗派の教えに触れることで、却って法華経への理解が深まり、大きな視野で仏教を捉えることができるようになったと感じるからです。
わたしはこの道しか歩めませんでした。
他者からどう思われるか気にせず、自分だけの道を歩んできましたけれど、後悔はしていません。
妻からは「とんだ変わり者と結婚してしまったわ」と言われていますが。
教員をしながら仏道修行をしていました
高校の国語科教員をしていたころ、宮沢賢治の詩を教えていた若い男性教員から「『法華経』について教えてください」と言われたことがあります。賢治と『法華経』は切っても切れない関係にあります。現代文学をそうですが、特に日本の古典文学と仏教は深い関係にあります。
勤務校では十数年間にわたって、毎年、一般市民を対象とした公開講座で「教養としての仏教」を講じてきました。勤務校は公立高校でしたが「教養としての」という語を冠したので、教育委員会から問題なく受け入れられました。
この講座では、僧衣を知ってもらうため、袈裟を着けて講義をしたこともあります。公立高校で、衣を着て教壇に立っのは、わたしだけかもしれません。
仏門に入って教員をしていたので、「二足のわらじを履いているのですね」と言われたことが、よくありました。ですが、わたしについて、この言葉を使うのは適切ではないかもしれません。
「二足のわらじ」は、ばくち打ちが、同時に別の場所で、ばくち打ちを取り締まる仕事をしていたことから生まれた言葉。本来は、両立することができない仕事を掛け持ちすることを意味しています。
わたしの場合は、仏道修行と教員の仕事は、双方を補い合ってきました。今、僧侶として活動をするにあたって、教員経験は大いに役立っています。
しかし、生徒の前で「出家しています」と言うのは、なるべく避けるようにしてきました。それは、どのクラスにも必ずといってよいほど、信徒数、八百万世帯を公称する仏教系大新宗教教団の二世がいたからです。この教団は、伝統仏教を邪教視していて、保護者面談の際など、わたしが仏門に入っていることが分ると、信頼を得られずに支障をきたすことがありました(担任をしていたクラスには、キリスト教系新宗教の二世もいました)。
逆に、大新宗教の熱心な会員である保護者(母親)から信頼を得て、その教団に入会しないかと熱心に勧誘され、困り果てたこともあります。
釈尊の教えは、一切の執着、囚われからの解放を説くものでした。仏教者が自己の信仰を貫くのはよいとして、それを他者に強要したり、自己の信仰以外の信仰をしている人を見下したりするのは、釈尊の教えから外れている気がします。
こうなってしまったのは、目覚めの道であった釈尊の教えが、他者依存の救済宗教に変貌してしまったからなのではないかと思います。このことは、また別の記事に記すつもりです。
墓前法要を営んできました。
今日は、横浜の拙宅から埼玉県、川越の霊園まで四十九日と納骨の法要に電車で赴きました。
夏用の僧衣は涼しそうに見えますが、実はそうでもありません。
暑さが幾分和らいだ日で助かりましたが、太陽が照りつける夏の日の墓前法要は、高齢のご遺族や僧侶にとっては命がけです。実際、数日前の猛暑日には、法要時、墓前で暑さで倒れた高齢の遺族がいたと、霊園の職員の方から聞きました。
法要の参列者は5名ほど。全員が七十代か八十代と思しき年齢(故人の享年は九十四歳)でした。「無理をせず、法要の途中で、屋内に退避されてもよいですよ」とお伝えしましたが、皆さん最後まで参列されて、わたしと共に唱題し、終了後は穏やかな、よいお顔をされていました。
わたしは、汗だくになって全集中の読経、唱題をしました。全力で法要を営ませていただいた後は、いつも清々しい思いになります。清々しいのはよいのですが、寄る年波には勝てません。暑さで疲れたのでしょう。帰路、東武東上線のシートに座って『月間住職』という雑誌を読んでいたところ、いつの間にか眠ってしまい、雑誌を床に落として目が覚めました。前に座っていた若い女性は、笑いをこらえていたようです。