体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

二人のお師匠さま

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力士や囲碁・将棋の棋士には必ず師匠がいます。僧侶も同様です。

お坊さんになることを「得度(とくど)する」と言いますが、師匠なしで得度することはできません。

お寺の子弟が僧侶になる場合、普通父親が師匠になります。師匠を探すのに苦労はありません。ですが在家(一般家庭)から僧侶になる場合、まずしなければならないのが、お師匠さま探しで、これが大変に難しいのです。

「弟子にしてください」とお願いして、「ああ、いいよ」と簡単に受け入れてくださる僧侶はまずいません。弟子を取るということには覚悟が要ります。師弟のつながりは、親子のつながりと同然、強いものです。弟子が何か問題を起こした場合、師匠には責任が生じます。

幸いなことに、わたしの場合は、多くの著作を持ち、僧侶の教育に力を注いでこられた瀬野泰光上人が「あなたを弟子にしたい」とおっしゃってくださり、得度することができました。瀬野師とご縁をいただいたのは、師の著書の編集のお手伝いをしたことがきっかけでした。

写真は、わたしが編集のお手伝いをした本、『南無妙法蓮華経のこころ』(大東出版社刊)です。

わたしには、もう一人修行の師匠がいます。精神科医で埼玉県・要唱寺の住職でいらっしゃる斉藤大法上人です。斉藤師との出会いは、インターネット上の師を紹介したブログの文章でした。その文章を読んで、なぜかこの僧侶にお会いしてみたいと強く思い、要唱寺を訪ね、その後、斉藤上人はわたしの修行の指導をしてくださることとなりました。

斉藤上人は瀬野上人のところまで赴いて、小島を指導したいとおっしゃってくださり、瀬野師は、わたしが斉藤師の下で修行することを快諾してくださいました。お二人は純粋なお題目中心の信心を持たれていて、響き合うものがおありになったようです。

有り難いことに、一般家庭出身のわたしは、お二人の僧侶とのご縁をいただき、僧籍のない浮浪児になることなく、正式に僧侶となって修行に励むことができています。

師匠がいなくとも書物で仏教を学ぶことは可能です。一人でお題目を唱えることもできます。ですが僧侶として仏の道を歩んで信心を深めるのは、一人では困難だということを痛感しています。

師匠の立ち居振る舞い、お題目を唱える声などに触れ、師匠と実際に向き合うことによって、師匠のもつ信心の力が全身の毛穴を通して染み込んでいく。そんな感覚をおぼえています。師匠と共にお題目を唱えることで、はじめて、わたしのお題目は深まりました。そしてこれからも深まっていくことでしょう。

「師匠選びで、修行が成就できるかどうかは八割がた決まる」

そんな言葉を聞いたことがあります。

そのときは「えっ、じゃあ、その後の自分の努力はたった二割っていうこと?」と思いました。ですが今は、この言葉の持つ重みをひしひしと感じています。