体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

素晴らしくて恐ろしきもの。それは「念」

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授業中の余談で「優しくなけりゃ真に強くはなれないのだ」と話したことがあります。その次の日の昼休み、ある男子生徒が、大きなタッパーに入っているキャベツにマヨネーズをかけてバリバリと食べているのを目撃しました。尋常な量ではありません。「どうしたんだ?」と訊くと、キャベツを咀嚼しながら彼は答えました。

「きのう先生は『野菜食わなくちゃ強くはなれない』って言っていたじゃないですか」

「なんという聞き違いを・・・。『野菜食わなくちゃ』じゃなくて『優しくなけりゃ』だよ」

今思い返すと、彼はわたしをからかっていたのかもしれません。

日蓮聖人について、多くの人は「強靭な意志を持った、強くて怖い人」というイメージを抱いているようです。ですがそれは誤解です。

聖人が信徒に宛てて書かれたお手紙を拝読すると、優しく細やかな心遣いに溢れていて、それが胸に響きます。

日蓮聖人の生涯は、強くて真っ直ぐな、キラリと光るような念で貫かれていました。そしてその念には、人々への慈しみが込められていました。まさに日蓮聖人は真に強い僧侶であったのだと思います。

読者からコメント欄にこんな質問が寄せられました。

「何か絶対に成し遂げたいものがあった場合、自分で自分に強烈な念をことあるごとに送ると行動も変容して結果もついてくる、ということになるのでしょうか?」

たしかにそのようなことはあると思います。ですが、わたしは意識的に強烈な念を送ることを、お奨めはいたしません。

お付き合いをしている男性とどうしても結婚したいと思っている女性がいました。いっぽう男性の方はあまり彼女の方に気持ちが向いていないようでした。ですが彼女は「私は絶対、彼の妻になるの」と強烈に念じ、彼にアプローチしました。その結果、めでたく結婚ということになりました。ところがすぐに離婚することとなります。

彼には、結婚前から彼女に隠れて付き合っていた別の女性がいて、その女性との関係が結婚後も続いていたことが発覚したのです。

自我(表面意識)というのは、何が自分にとって本当に良いことなのか分かっていないことがあります。人は業(過去世から持ち越してきた強い思い癖)に突き動かされて何かを強く念じ、行動してしまうということもあります。それは「念の暴力」といったものになる危険性があります。

「絶対、彼の妻になる!」と言って彼氏を引き寄せた彼女の強烈な(「強引な」と言ってもよいかもしれません)思いも、暴力的な念であったと言えそうです。

「お上人さん、どうしても結婚したい、片思いの男性がいるんです。彼との結婚が成就しますように祈願してください」そう言う女性がわたしの前に現れたら、こう伝えます。

「わかりました。はじめに『このお二人の婚姻が双方のたましいの成長に相応しいものでしたら、結婚へとお導きください』とご本尊に祈ります。でもその後は、結婚成就を祈ることは致しません。読経をしてから、だだひたすら全身全霊で、ご本尊とひとつになるよう、お題目をお唱えします。結果がどうなるかはわかりません。それでよろしければ祈りしましょう」

この無願の全集中の唱題は、二人のお師匠さまから教えいただいたものです。ただ至心に無願の唱題すると、自己の計らいを超えて、思いもよらぬ形で事態が良き方向に進んでいくことを、わたしは体験してきました。依頼者にもこのようなお題目を唱えることをお勧めしています。

この唱題を深めていくと、おのずと業が清まっていくのが感じられます。縁のある霊が浄化されいくことも感じられます。

強い念は、自己を守り、大切な幼き者、弱き者をも守ります。ですがいっぽうでは他者を縛り、他者そして自分をも傷つける「暴力」となることもあります。強い念は諸刃の剣と言ってよさそうです。

無願の全集中の唱題を深めていくと、潜在意識下の業が浄化され、意図せずして、日蓮聖人のように「慈悲に満ちた強き念」を発することが徐々にできるようになっていくようです。唱題中、わたしたちを導いてくださっている日蓮聖人の強き思いを感じることもあります。

わたしは、妻から「念」が素晴らしくて、特に恐ろしきものであることを学びました。

妻よ、ありがとう。合掌