体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

「わたし」って何?

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わたしの母は、仲の良い友人と旅行に行って帰ってくると、その友人とそっくりな話し方になっていました。そしてあたかも自分の考えであるかのように友人の考えを語っていました。母は優しい人でしたが、確固とした自我を持っていなかった気がします。

わたしの知人の九十歳を超えたご老人は、若いころ、自ら志願して海軍に入隊し、お国を守るために死ぬ覚悟をしていました。ご老人は、自分が軍人であることに誇りを持っていましたが、終戦後、この戦争が間違いであったことを知り、呆然としたそうです。

母は無意識のうちに人に影響されて行動することがありました。軍人であったご老人は、強固な自我をお持ちで、自らの意志で軍人になりましたが、それは時代精神に支配されていたがためでした。わたしたちは、「自由意志を持って生きている」と思っていても、他の人間や社会状況に支配されていることが多々あるようです。

人は他の動物と違って、自我というものを持っています。自我とは、私を外界の対象や他者と区別していう語です。自分を有能(あるいは無能)と思ったり、喜んだり悲しんだりして、自己の進路を選び、それを実現するために行動する・・・。それが自我です。

この自我がそれぞれの人の絶対的な主人公なのかというと、はなはだ心許ない気がします。自我は、無意識のうちに他の存在から影響を受けたり支配されたりしていています。「自我」イコール「本当のわたし」とは言えないようです。

宮沢賢治は『春と修羅』の「序」に、次のように記しています。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

賢治は「わたくしという現象」は確固たる自我ではなく「あらゆる透明な幽霊の複合体」であると言います。これを読んで「意味不明」と思う人は多いでしょう。

わたしはこの言葉が分る気がします。仏道修行の過程で、わたしは、人は、この世の他者だけではなく、見えない世界の存在からも強く影響されていると感じてきました。それだけではありません。人が、自我意識にはまったく浮上してこないことを、深層意識では思っているということも感じてきました。

「霊交学」の提唱者、船越富起子氏は、潜在意識について次のように説明しています。

自己の、数回の又は数十回の此の世の人間経験の全部を、潜在意識と云う。人間の意識(心)の奥深くに、いかにも地底を流れる地下水の如く、ひそやかに然も確実に存在する、人間経験の意識や知識(認識)や霊格の全部を云う。心理学の分野で云われる深層心理とは、この事を指す。

私は一般家庭の出身で、誰からも僧侶になるように言われたことはありません。ですが、何かに突き動かされるようにして仏教を学び、その必要もないのに僧侶になってしまいました。

船越氏の言う「数回の又は数十回の此の世の人間経験」とは過去世での経験を意味していますが、わたしには、過去世で仏道修行者であった記憶が漠然とあります。そして、その修行がまっとうできず、不完全燃焼の状態で、今回生まれてきたように感じています。それゆへ、仏の世界を強く志向してしまうのでしょう。

ある霊的な能力を備えた人から「あなたには、江戸時代のはじめに僧侶だった先祖がいるね。その先祖が、あなたが僧侶になることを強く願って、導いているよ」と言われたことがあります。このことを言われた数日前、父から我が家の系図のコピーをもらったのですが、そこには、江戸時代初期に生きた明順律師という僧侶の名が記されていました。

以上の話を、思い込み、単なる偶然と考える人もいるでしょう。確たる証拠はないのですから当然のことです。ですがこれを非科学的であると一笑に付すことはできないでしょう。世にあまり知られてはいませんが、19世紀から霊的世界についての真剣な研究が欧米でなされているのです。タリウム元素を発見したイギリスの化学者、ウィリアム・クルックスやノーベル賞を受賞したフランスの生理学者、シャルル・リシェは真摯な霊的世界の研究者でした。彼らは霊の実在を認めています。

自分の人生を選択し決定する主体であると考えられている自我。それは、他者から独立した強固な実体ではない。実はこの世の他者や現実社会のみならず、あの世の存在や、自己の深層の意識からも影響を受けている。見えない世界からのさまざまな関与によって成り立っているのが「わたくし」である。「あらゆる透明な幽霊の複合体」というのはそういうことなのではないかと思います。

賢治は日常の感覚とは異なった感覚を持ち、肉眼では感知しえない世界を視ていたのでしょう。その賢治が深く帰依していたのが法華経です。賢治は南無妙法蓮華経を唱えていました。真に南無妙法蓮華経を唱えていると見えてくる世界があります。

自我に関与している様々な意識を波に例えると、その波の底に美しく静寂で、かつ、いのちの力がみなぎっている世界が広がっています。それは仏の世界です。その世界とつながると、いのちの力が涌き出てきます。そして多様な意識、想念に翻弄されることなく生きることができます。わたしはまだ修行の道半ばですが、唱題修行をしているとこのことが実感されます。

賢治は法華経と出会って、仏の世界を如実に感じ、この世界とつながって、すばらしい作品を生み出したのだと思います。