体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

死者と共に生きる

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 高校一年のときの生物の時間、担当の先生がこう言いました。「君たちの中に仏壇の前で手を合わせるという非科学的なことをしている者はいないだろうな」もう半世紀ほども昔の話ですが、当時から、いや、ずっとそれ以前から「死後も人は生きている」と考えるのは、前近代的な迷信だと大方の知識人は考えていたようです。

農村部と都心部では差があったとしても、昭和30年代のはじめころまでは、先祖の霊と共に生きているという感覚を持っている人が多かった気がします。今でもお盆の風習は残ってはいますが、形骸化してしまったようです。昔の人たちは、お盆の期間には先祖が我が家に戻ってきて、家族と共に楽しく過ごすという実感を持っていました。「ご先祖様が草葉の陰から見守っていてくださる」といった言葉を子どものころに聞いた記憶もあります。

それが高度成長期を迎え、経済至上の物質中心主義の時代となり、「先祖の霊を感じて、死者と共に生きる文化」は消えてしまったようです。

時代が変化しても、変わらないのが死者を悼む心です。宗教学者島田裕巳氏は「葬義はいらない」と主張していますが、それが多数派の意見とはなっていません。心を整理して、死別の深い悲しみを癒すために、葬儀は一定の役割を果たしていると言えましょう。その悲しみのケア(世話)をするグリーフケアも現在、注目されており、グリーフケア・アドバイザーという資格も存在しています。

昔は、家族が亡くなると僧侶が頻繁に供養のために家庭を訪れ、近隣の人たちも遺族の悲しみに寄り添ってくれるということがありました。そのような死を受け止める文化が消えてしまったため、グリーフケア・アドバイザーが登場したのでしょう。

宗教学者や心理学者、カウンセラーも、死別の悲しみを癒すための取り組みをしています。ですが、ケアする側に立つ人が「死後も人は生きている」という思い、感覚を持っているということは、まったくといってよいほどありません。現代においては僧侶も同様です。これは、昔とは決定的に異なっている点です。現代では多くの場合、ケアされる側も「死とは無に帰すること」と考えています。

わたしは、真に人が癒されるためには、「死者と共に生きている」と感じる文化を再興する必要があると考えています。現代は、矢作直樹氏(東京大学名誉教授・医学博士)のような識者が「死後も人は死なない」と論じる時代です。矢作氏の論には賛否両論があるでしょうが、少なくとも「仏壇の前で手を合わせるのは非科学的」と断定する時代ではなくなってきているのも事実です。真のスピリチュアリティ―(霊性)を中心に据えた文化を創る努力をしていきたいと思います。

沖縄では清明祭(シーミー)と呼ばれる先祖供養の行事が今でも盛大に行われています。清明祭では一族が墓に集まり、御馳走や酒、花を先祖にお供えし、そのあと皆でにぎやかに御馳走をいただきます。わたしはこのまつりを見て「まるでピクニックのようだ」と思いました。そして「沖縄の人たちは、今でも先祖と共に生きているという感覚を持っているのだな」と感動しました。この感覚を蘇らせなければ、本当の意味でのグリーフケアはできないのではないか。そのようにわたしは考えています。

そのために多くの人に知っていただきたいのが要唱寺住職・斉藤大法上人の「たましいの供養」です。斉藤上人は、紛れもなく、真摯に死者のたましいと向き合って供養をされている僧侶です。お求めがあれば、わたしも斉藤師の弟子として、未熟ですが心を込めて、師の下で「たましいの供養」をさせていただきます。

冒頭のカットは、身延山にある日蓮聖人の御廟所(お墓)です。身延山での修行時、わたしたち修行僧は、毎朝この御廟所にお参りさせていただいていました。そのとき、わたしは日蓮聖人を鎌倉時代という遥か昔に生きた過去の僧侶とは感じませんでした。日蓮聖人は今も見えない世界で生きていらっしゃって、わたしたちの修行を見てくださっている。そのように感じて合掌し、読経、唱題させていただきました。

死者と共に生きる。この感覚を持って祈り、多くの人々が真に癒されて生きる時代が到来することを願って、僧侶として活動をしてまいります。

*本ブログ・プロフィールの下の「このブログについて」中のウエブサイト欄に記載されているのは、要唱寺HPのメールアドレスです。