体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

死者と共に生きる・その2

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昨日「死者と共に生きる」をこのブログに掲載した後、穏やかで満ち足りた思いに満たされました。きっと美味しいものを食べたからでしょう・・・というのは冗談です。「自分たちは決して消えて無くなってしまったわけではない。このとを伝えてくれてありがとう」という、あの世の人たちの思いを、何となくですが感じたからかもしれません。

こんな話を思い出しました。高校の数学教師、K子さんから聞いた話です。K子さんがお母さんと京都を旅行した折、ふたりは菩提寺の宗派の本山に参詣しました。そして亡くなったお父さんの供養をしてもらいました。「今日はご供養ができてよかったね」そうお母さんと話しながら旅館に着き、就寝してからのことです。

K子さんは、すやすやと寝息を立てているお母さんの横で、なぜか真夜中に目が覚めました。普段はそのようなことはありません。すると匂いが漂ってくるのを感じます。

何の匂いだろう・・・と思った彼女は、すぐに気づきました。それが幼いころお父さんに抱っこしてもらった時にいつも感じていた煙草の匂いであることを。

同時に枕元に人が立っている気配もします。入口の戸には鍵が掛かっていますので、誰かが入ってくることはあり得ません。K子さんはその人がお父さんであることを確信しました。「お父さんだっ!」そう思った直後、彼女は無言のメッセージを受け取りしました。「供養してくれてありがとう。お前たちのことを、父さんはいつも見守っているよ」

そのメッセージを受け取った瞬間、匂いと気配はスッと消えてしまったそうです。K子さんはバイオリンを愛する、優しくて理知的な人です。私とはちがって、つまらない冗談を言う人ではありません。

彼女は、お父さん亡き後も、お父さんを感じながら生きているようです。

わたしは四歳のとき、虚弱だった一歳になったばかりの弟を亡くしました。弟が可愛くて、ベビーベッドに寝ている弟の顔に、よく自分の顔をピッタッとくっつけていたことを覚えています(弟にとっては迷惑行為だったでしょうね)。なぜか今、弟のことを思い出しました。そばに来ているのかもしれません。

あの世を信じている、幼子を亡くしたお母さんから「あの子は今どうしているのでしょうか」と言われたことがあります。そのとき、こんな話をしました。

横浜・伊勢佐木町のはずれに子育て地蔵尊を祀るお堂があります。そのお堂の隣のビルの一室で、知人の母親がカラオケバーを経営していました(今はお店も、ビルそのものもありません)。その母親から聞いた話です。

真夜中、お客さんが皆帰ってバーの店内が静かになったころ、お堂の方から声が聞こえてくるというのです。母親だけではなくお店の女の子たちも、その声を聞いているといいます。それは子どもの声でした。たくさんの子どもたちが、楽しそうに「わーっ」と声をあげながら遊んでいる、そんな声だといいます。

「お地蔵さまが、亡くなった子どもたちを育て、導いていらっしゃるんじゃないかしら。きっとそうに違いないわ。子どもの霊が、お地蔵さまのお堂にお供えしてある風車を持って走り回っている・・・そんな気がしたの」知人の母親はそう言っていました。

あの世には、幼い霊を優しく導く養育係がいるようです。ですので、あの世の子どものことは心配しなくても大丈夫なようです。

我が弟もあの世で育まれて成長し、今ではわたしのことを見守ってくれているのかもしれません。

今回はここで終わりにしようと思ったら、先日アップした「実話怪談」が思い浮かびました。不慮の死で亡くなったりして、死を自覚できていない場合は、すぐにあの世に赴けないこともあるようです。そのような場合は、この世の人が心を込めて供養することが必要だと言えましょう。

イギリスでは幽霊屋敷が観光名所になっているそうです。日本の木造家屋と違って、石造りの洋館は、長い間壊されないことが多くあります。そこには死を自覚できず、室内の階段に百年以上も座っているような霊が少なからずいるということなのでしょう。

これはキリスト教圏には供養の文化がないというのが大きな理由である気がします。死を自覚できていない霊は、たましいの供養によって死を自覚し、慰められ、高い世界に向かって浄化していきます。

僧侶として真摯に供養をさせていただきたい。わたしはいつもそう思っています。