体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

幸福になるための三つの条件

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「なぜ、仏教僧のブログにキリスト教会のイラストが」そう不審に思った方があるかもしれません。実はわたし、キリスト教に改宗しまして・・・というのは冗談です。

今日の夕刻、YMCAでスピーチをすることになっているのです。

YMCA(Yong Men`s  christian Association )は、「キリスト教青年会」と訳されます。この団体は、キリスト教精神を基盤とした世界最大規模の非営利団体で、社会に様々な貢献をしています。

17時半から40分ほど、西早稲田のYMCAでお話をさせていただく予定です。タイトルは「自己を育み、他者を育む」。「お題目の有り難さ」ではありません。

道徳心」ではなく「たましい」を育むという内容のお話をしたいと思っています。

深層心理学のビックスリーの一人、アドラー(他の二人はフロイトユングです)は、人が幸せになるためには三つの条件が満たされなければならないと言っています。

自分を好きだと思えること(自己受容)・この世界を安心して生きることができるところだと思えること(世界への基本的信頼感)・自分は他者の役に立つことができると思えること(貢献感)がその三つです。

この三つは、道徳観念を養うことによって満たされるものではありません。高校で「奉仕活動」を卒業に必要な単位として設定するといった話ではないのです。そもそも「自己受容しなさい」とか「世界を信頼しなさい」と言われて「はい、わかりました」と簡単にそれができる人はいないでしょう。

アドラーは、これら三つを併せて「共同体感覚」と呼びました。共同体感覚の育成がアドラーの心理学の目的であると言ってもよいと思います。

たしかに共同体感覚が十分に養われいる人は幸せであると思います。でもそのような人って、ほとんどいないのではないでしょうか。人は多くの場合、理想の自己像を思い描き、そこに行き着くことができないもどかしさや絶望を感じて生きています。

わたしはアドラー派の心理学の先生に学んだことがありますが、その先生は「理想は人を不幸にする」と言っていました。「不完全を受け入れる勇気が必要だ」とも言っていました。

現代の社会では、人は自己と他者を離別したものと感じ、比較し競争して傷ついています。自己を受容し世界を信頼するのは、容易なことではありません。この二つがなければ、他者に貢献することも難しいでしょう。

共同体感覚の育成が困難なのは、知識がないからではありません。かつてわたしの同僚が「知識は力だ!」と叫んでいました。ですが共同体感覚の育成においては、知識は必要かもしれませんが、力にはなりません。

わたしたちの深層にある意識が本当に癒されなければ、共同体感覚を持つことはできないのです。理性や意志の力では、人は癒されません。これは道徳のレベルを超えた話です。

わたしはカウンセリングマインドを持って生徒に接してきたつもりですが、心理学に限界を感じていました。それは、心理学が肉体を超えた、人間のたましいのレベルまで踏み込むことができないからです。

わたしは、過去世というものが実在することを、修行体験の中で実感してきました。人は過去世の体験を負ってこの世に誕生する。過去世での心の傷を癒すことなくて、本当に共同体感覚を持つことはできない。そのように、わたしは考えています。

深層心理学ビッグスリーの中で、唯一ユングは、「人は霊的な存在である」と考えていたと言ってよいと思います。ユングは表立って「霊の実在」を肯定していませんが、友人に宛てたプライベートなな書簡を見ると、このことについて真剣に考えていたことがわかります。それはユングが生来、霊的な感性を持っていたからでしょう。

ですがユングは学者として「霊は実在する」と明言はしていません。それは、そのことを言うことで受けるであろうバッシングを恐れていたからでしょう。

仏教は、今生だけではなく過去世のトラウマをも癒す瞑想、祈りを持っています。わたしは僧侶として多くの方たちと共に、このトラウマを解消するための実践(具体的に言えば唱題)をしています。

と記してきて、「今日は、YMCAで、どのように話したらよいのかなあ。ちょっと困ったぞ」という思いが浮かびました。それは、今のキリスト教では過去世を認めていないからです。

仏教の僧侶としての思いを率直に話すのは控えたほうがよいかもしれません。ですが、知識や理性を越えて、たましいのレベルで共同体感覚を育くむという話は、キリスト者にも共感していただけるのではないかと思います。

さて、今から今日のスピーチの内容をまとめて、YMCAに出発することにいたします。