体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

共同体感覚と仏教

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アドラーの提唱する「共同体感覚」についてブログ中で触れました。共同体というのはわたしたちが所属している世界です。共同体としてまず思い浮かぶのは、家庭や学校、職場でしょう。地域社会も共同体です。

「自分には仲間がいて、自分は所属する世界にいてもよいのだ」と感じられること。それが共同体感覚です。

以前の記事では、「自己受容・世界に対する基本的な信頼感・貢献感の三つを併せて共同体感覚と呼ぶ」と記しました。

アドラーのいう共同体は地域社会にとどまるものではありません。それは宇宙全体を指しているのです。その中には、国家や人類だけではなく、動植物や無生物までが含まれています。また時間軸について言えば、過去も未来も含まれています。壮大な話ですね。

アドラーの提唱する共同体感覚という概念を受け入れることができず、彼のもとを去っていった人が多くいたといいます。ですが仏教者であるわたしには、アドラーのいう共同体感覚がスッと胸に入ってきます。

人はポツンと一人存在して生きているのではない。他者から切り離されて生きられる存在はない。そう仏教は説きます。

ティク・ナット・ハンというベトナム人の禅僧は「一枚の紙に雲を見る」と言いました。紙の原材料は樹木です。樹木は大地に降り注いだ雨によって育まれ、その雨は空の雲からもたらされます。雲、雨、大地とのつながりなしで立っている木はありません。このような在り方を仏教では無我といいます。

仏教的に言えば弟の後に兄が誕生したことになります。お母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんを見にきた我が子に「今日からあなたはお兄ちゃんよ」と言います。弟が誕生しなければお兄ちゃんは存在しないのです。

アドラーは、世界、他者とのつながりの感覚を重視し、癒された健やかなつながりの感覚を共同体感覚と呼びました。

すべては関係性、つながりのなかで存在していると説く仏教とアドラー心理学には、通底しているものがあると言ってよいでしょう。

複数で唱題をしていると、他者の心とつながり、響き合うという感覚をもち、共に癒されていくことを感じることがあります。アドラー心理学は「対人関係の心理学」と呼ばれていますが、仏教者としても対人関係は極めて大切だと思っています。

さらにわたしは、アドラーが言及していないもう一つの関係性も重視しています。それは「対霊関係」です。

僧として供養の唱題をさせていただいていると、故人の霊と響き合い、その霊が癒されて浄化していくのを感じることがあります。

日本の供養の文化は「対霊関係」を重んじた文化です。古来日本人は対霊関係を大切にしてきました。それが現代では希薄になっています。

形骸化した供養、観念的な供養に大きな意味はありません。ですが真のたましいの供養は、あの世のたましいとこの世のわたしたちの双方の幸せにとって、とても重要であると、わたしは考えています。

受け入れてはもらえないかもしれませんが、わたしはアドレリアン(アドラー心理学を学ぶ人たち)に「共同体感覚を育成するためには、対霊関係も視野に入れる必要がありますよ」と伝えていきたいと思っています。