体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

トラウマと業

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アドラー心理学に関して、いくつかの記事で言及しました。それを読んで、アドレリアン(アドラー心理学を学んでいる人)は、違和感を抱いたかもしれません。小島はアドラーを分っていない、と思った人もあるでしょう。それは、わたしがトラウマを肯定しているからです。

「幸福になるための三つの条件」という記事で、わたしは次のように記しました。

「わたしたちの深層にある意識が本当に癒されなければ、共同体感覚を持つことはできないのです。理性や意志の力では、人は癒されません」

癒されなくてはならない深層にある意識というのは、トラウマのことです。わたしは、トラウマの存在を前提として、僧侶として活動しています。これに対して、アドラー心理学は「トラウマは、存在しない」と言います。トラウマを明確に否定しているのです。それは、この心理学が原因論ではなく、目的論に基づいているからです。大ベストセラーになった『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社刊)には、このことが詳しく説明されています。

私の師匠、斉藤大法上人は精神科の医師でもありますが、大法師が住職を務める要唱寺のHPには、「重なるストレス、深いトラウマ、苦悩からの解放」という記載があります。師は僧侶として、また精神科医として、トラウマを肯定し、相談者と向き合っています。

幼少期にトラウマを抱えた人について調べると、「細胞レベルで老化が加速している」、「脳がダメージを受けている」といったことが明らかになっているそうです。医学的な見地からは、トラウマを否定することはできないようです。

『嫌われる勇気』に登場する哲人は「わたしにとってのアドラー心理学ギリシア哲学と同一線上にある思想であり、哲学です」と語っています。この心理学は「科学、医学ではない」と言うこともできるようです。

医学については門外漢で、詳しいことは分かりません。ですが僧侶として修行し、活動していると、如実に自己や他者のトラウマを感じます。トラウマだけではなく業(カルマ)を感じることもあります。業とは、ある人生から次の人生に持ち越される、たましいの持つ特定の傾向です。

業は過去世のトラウマであると言ってもよいのですが、業には精神的外傷と呼んでよいものだけではなく、プラスに働くもの(善業)もあります。一例をあげれば、苦しんでいる動物を見ると、どうしても放っておけないというのが、善業です。

わたしには、大型書店に入ると仏教書を買わずには帰れないという性向があります。

仏教を志しながら、病弱でそれが叶わず早世した過去世の記憶を、わたしはおぼろげに持っています。その無念さが、現世のわたしを仏教の学びへと突き動かしているのだと感じています。これは、善業とは言えないかもしれませんが、悪業とも言えない業でありましょう。

購書が居間や客間を侵食することは度々で、妻から「あなたの本はすべてブックオフに売ります」と怒られています。仏教書への執着というわたしの業は、妻にとっては明らかに悪業のようです。

子どもはみな白紙で生まれて来るという人がいます。ですがわたしは、こどもはみな、それぞれ異なった業を負って生まれてくると感じています。生まれたての赤子を見ると、同じ親から生まれた子どもでも、図太そうな表情をした子もいれば、不安そうな表情をしている子もいます。

わたしには息子が二人いますが、それぞれまったく異なった表情で(「異なった氣を放って」と表現してもよいかもしれません)生まれてきました。そこに、わたしは我が子の業を見る気がしました。

業の存在を認めるのは、原因論に基づく人間理解であるといってよいでしょう。『嫌われる勇気』の哲人は「我々は原因論の住人であり続ける限り、一歩も前に進めません」と言っています。ですが、わたしはそうは思いません。

業というのは、変えることのできないものではりません。また悪業を忌み嫌う必要もありません。業は変容していくものです。悪しき業が、人の精神性を深め、人を崇高なものへと高めていく糧(かて)となることもあるのです。トラウマについても同様のことが言えるでしょう。

わたしは、子ども時代に負ったトラウマを生きる力に変容させて、人々から信頼されるカウンセラーとして活躍している男性を知っています。

トラウマや悪業に翻弄されてしまう人生もあります。しかし、自己のトラウマや悪業から目を背けず、これを味わい、そのトラウマや業と対峙するとき、人は大きな成長を遂げることもあるのです。

どのような女性が好きかと問われ、わたしは「業の深い女(ひと)が好きだ」と答えたことがあります。悪業というのは恐ろしいものです。しかしそれは、同時に大いなる可能性や豊かさを秘めた魅力あるものでもあると、わたしは感じています。

トラウマや業を認めない、原因論を否定した人間理解。それは、わたしにとっては、乾いて潤いのない無機質なものに映ります。

仏教の教えは、トラウマや業を前提としています。仏教とアドラー心理学には通底したものがありますが、そこは両者の大きな相違点です。

トラウマや業を消し去っていくのではなく、変容させていくのが仏教の修行です。唱題(「南無妙法蓮華経」を唱えること)をしていると、自己や他者のトラウマやカルマを感じることがあります。そしてそれが変容し浄化されていくことを感じることもあります。

過去世や業は、科学的に証明されたものではありません。ですが、わたしは、トラウマと同時に業というものの存在を体感してきました。自他のトラウマや業を感じながら、わたしは、周囲の方たちと共に仏の道を歩んでいます。