新しく仏像をお祀りする際、御霊入(みたまい)れをします。御霊が入っていない仏像は、美術作品にすぎません。
横浜のデパートで京都寺院の宝物展が開かれたときのことです。わたしと一緒に仏像を拝観していた妻が不思議そうに言いました。「何の氣も感じないわ。なぜ?」
妻はこの仏像を、京都に旅行したときに寺院で拝観していました。そのときは仏像から放たれる大いなる氣を感じ、感動したといいます。
わたしは妻に答えました。「それは御霊抜きがしてあるからじゃないかな」
仏像を修理するときなどは、いったん御霊抜きをします。御霊が抜けた仏像は、たんなる鑑賞の対象となり、手を合わせて拝む対象ではなくなります。
西村公朝師は天台宗の僧侶で、仏師・仏像修理技師であり東京芸大の名誉教授でもありました。西村師は、仏像の修復をする際、僧侶ですので、みずから御霊抜きをします。師は、仏像の修復依頼を受けたとき、御霊がどうしても抜けてくれず苦労したことがあったと語っていました。たしかその御仏は地蔵尊ではなかったかと記憶しています。
日蓮宗では、お題目(南無妙法蓮華経)と神仏の御名が書かれたた大曼荼羅ご本尊をお祀(まつ)りします。これも御霊入れをしなければ、鑑賞作品です。
わたしは、斉藤大法上人が御霊入れをされた大曼荼羅ご本尊の前で日々祈っていますが、強い力をご本尊が放っていることを如実に感じます。ご本尊を拝するとき、本仏の大慈悲の光に包まれていることを実感します。
僧侶は、毎日しっかりとご本尊の前で読経しなければいけません。修行仲間とある霊山の麓の寺院で手を合わせたときのことです。その仲間がそっとわたしに言いました「このお寺のご住職はあまり御経をあげていないみたいだね」このとき、わたしも同じことを感じていました。
どんなに立派なご本尊をお祀りしていても、僧侶が読経を怠っていたのでは、人々を度することはできません。
昨日は三十代後半の女性の教え子から、罹患している病についての相談を受けました。わたしは教え子に、ご本尊の前で彼女のために祈ることを約束しました。他者のために祈ることができるのは、本当にありがたいことです。
人のために祈ることは、僧侶でなくともできます。米国の医科大学の教授である高橋徳氏は「人のために祈ると超健康になる」(マキノ出版刊)というタイトルの本を著されています。わたしは多くの方たちと共に祈りたいと願っています。
大切なことをお伝えし忘れていました。それは、御霊入れをしていない仏像を安置していると、そこに未浄化な霊が入り込んでしまうことがあるということです。また骨董店に置かれてある仏像には、未浄化な霊が入り込んでいるだけではなく、呪詛の念のようなものが込められていることもあります。どんなに美し仏像であっあとしても、安易に古い仏像を求めることはお勧めできません。
お仏像を求め、安置するにあたっては、信頼できる僧侶に相談されるのがよろしいでしょう。