体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

南無妙法蓮華経が嫌いな人も多いと思います

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日蓮聖人が生きた鎌倉時代南無阿弥陀仏とお念仏を唱える声が我が国を覆っていました。南無妙法蓮華経とお題目を唱える人の数は、聖人亡き後、門弟たちのの弘教によって増えてはいきましたが、念仏者の数には及びませんでした。

時代劇で死者に手を合わせるシーンでとなえられるのも、お題目ではなくお念仏です。現代でもお念仏を称える浄土系宗派の寺院数は、お題目を唱える日蓮系の寺院数を圧倒的に凌駕しています。

ところが現代においては、朝夕、真剣にお題目を唱える人の数が、お念仏を称える人の数をはるかに上回っていることは間違いありません。

それは仏教系の新宗教のほとんどがお題目系であるからです。お念仏系の新宗教というのは、ほんのわずかです。

伝統仏教の寺院の檀家数は膨大ですが、その中で熱心にお念仏やお題目をとなえている人は、どのくらいいるのでしょうか。我が家は浄土真宗の檀家ですが、両親が南無阿弥陀仏を称える声を聞いたことがありません。周囲を見回しても同じ状況です。

伝統仏教は形骸化してしまっているといってよいでしょう。

これに対して、膨大な数のお題目系の新宗教の信者は、朝夕、真剣に南無妙法蓮華経を唱えています。このことが一方では多くの人たちに南無妙法蓮華経への拒否感を抱かせることにもつながっています。

わたしが幼少のころ、或るお題目を唱える新宗教の女性信者が我が家にやってきたことがあります。当時、わたしは病弱であった弟を1歳で亡くしたばかりでした。女性信者は、母が我が子を失ったのは正しい信仰をしていないからだと言いました。その女性は「この信仰をしないと、この子(わたしのことです)も心配だわ」と言って、母に入信を勧めました。なぜかこの時の記憶が鮮明に残っています。

その後、母は入信しませんでしたが、心配していただいた、わたしは、無事に成長し、生きております。

お題目系の新宗教の勧誘に辟易した人は多くいます。わたしは、良心的で尊敬できるお題目系の新宗教の開祖も知っています。ですが少なからぬ数のお題目を唱える新宗教が、開祖の指導の下、強引な勧誘活動を繰り広げてきたのは事実でありましょう。

この影響で、わたしは身近な人に、気軽に「よろしかったら、一緒にお題目を唱えてみませんか」と言い辛くなっています。

封建時代は、武士に生まれれば一生を武士として生き、農民に生まれれば一生、農民として過ごすという時代でした。いっぽう現代は、生まれた家の経済力などに格差があったとしても、自由意志を行使して人生を切り開くことができる時代です。この時代を切り開いていくにあたり、お題目は強い力を持っているのだと思います。

妙法蓮華経』という経典には「生きよ!」というメッセージが込められています。それゆえにお題目の信心は人の心を強くし、終戦後は、燎原の火の如く広まっていったのでしょう。

「南無妙法蓮華経」は、「『妙法蓮華経』の教えをにいのちを預け、その教えに従って生きます」という意味をもつ言葉です。ですが日蓮聖人は「それは単なる言葉ではなく、永遠の仏陀のいのちそのものである」と言われました。南無妙法蓮華経のちからをわたしは身と心で実感しています。

強い力のあるものが間違って利用されれると大変なことになります。切れ味の優れた刀には名刀と妖刀があります。名刀と共に妖刀のようなお題目もあると、わたしは感じています。

錆びた刀は、困難を切り開く力も輝も持ちませんが、人を殺める危険性もありません。力なきものはある意味では安全ですが、力あるものは危険性も備えていると言えましょう。

ある人が「南無妙法蓮華経を唱えて、崖から身を投げる人はいない」と言っていました。それは南無妙法蓮華経を唱えていると、生きる力が涌いてくるからです。

とは言うものの、南無妙法蓮華経は誰が唱えても同じというわけではありません。唱える人によって南無妙法蓮華経の放つ波動はまったく異なったものとなります。率直に言って、わたしには卑しく響くお題目もあります。人の欲望を強めたり、人を支配したりするようなお題目もあるようです。

わたしは、埼玉県・要唱寺の住職で精神科医でもある斉藤大法上人の下で修行させていただいています。そこで心身に苦しみを抱えた人が、お題目を唱えて癒され、平安を得ていく姿を目の当たりにしてきました。本物のお題目のちからを実感しています。

わたしは十数年間お題目を唱えてきましたが、最近になってようやく本当のお題目を唱える修行が始まったと感じています。