体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

仏教少年

f:id:kasinoki1957:20211121225122j:plain

井上陽水に「少年時代」という歌があります。名曲です。文化祭で生徒のバンドのボーカルとなり、体育館のステージ歌ったことがあります。

これはわたしの中年時代のの懐かしい、いや恥ずかしい思い出です。

それはどうでもいい話でした。今回は、わたしの中年時代ではなく、少年時代について記すことにいたします。

わたしは、1957年にサラリーマンの家庭に長男として生まれました。

小学校の頃から仏教に興味のある、変わった少年でした。生まれた場所は横浜市金沢区富岡町という海辺の町。鎌倉に近く、そのせいか小さな町に五つの寺院がありました。

小学校5、6年生の頃のわたしは、よく自転車でその寺院巡りをし、各寺院の宗派も記憶していました。慶柵寺は真言宗、長昌寺は臨済宗・・・。今でも覚えています。

たしか小学校5年生の時だったと思います。近所の書店に『大法輪』という仏教の月刊誌(現在は休刊中)を購入しに行った記憶があります。『大法輪』を店番のおばあさんに差し出すと、こう言われました。「えらいねえ。おじいちゃんのお使いかい」

わたしはなんだか恥ずかしくて「ぼくが読むんです」とは言えませんでした。今思い返してみて、小学生が読んで、はたして理解できていたのか、不思議です。

中学生の頃には般若心経を暗誦し、親鸞聖人の教えについて書かれた『歎異抄』に感動して涙したことを覚えています。

中学二年の時だったと思いますが、母親からクリスマスプレゼントに何が欲しいかと訊かれて「神棚」と答えたことがあります。当時は、神道にも興味がありました。とにかく宗教に興味のある少年で、谷口雅春五井昌久といった新宗教の宗教家の著作も読んでいました。

わたしは長じて国語科の教員となりましたが、わたしの読書力や語彙力は、文学作品ではなく、仏教書を中心とする宗教書によって培われたのではないかと思います。

中学三年のスタート時、クラス目標を決めることになりました。中学生らしい案がいくつか出されました。わたしも求められて案を出しました。それは「日々是好日(にちにちこれこうじつ」」という中学生とは無縁の禅語でした。

選ばれるはずはないだろうと思いつつ出した案です。それがなんと、多数決でこの言葉がクラス目標に選ばれてしまったのです。

「なんだかよく意味は分からないけど、カッコよくていいんじゃない」そう多くの生徒が思ったのでしょう。「日日是好日」と書かれた額が教室の黒板横に一年間掲げられてありました。

わたしの両親は信仰とは無縁でした。何故、小学生の頃から仏教を中心として宗教に心惹かれてきたのかは不明、理由はよくわかりません。

親しい霊能者の知人によると、わたしは過去世で仏道を志したしたのだけれど、病弱で若くして亡くなってしまったのだそうです。そうだとしたら、十分に仏道修行ができなかったことが心残りとなって、今生で宗教に惹かれ、僧侶になったのかもしれません。

わたしは少年期から仏教に、単に知的な関心があるだけではなく、癒しとか救いを求めていた気がします。

スポーツや音楽に興じて仲間と楽しく過ごすのが普通の中高生です。私は運動音痴ですが、友達とギターを弾いて歌ったりして、それなりに青春を楽しんでいました。ですが心から楽しいと思ったことはありません。

その理由はこの世の無常にありました。強靭な肉体も、優れた知力も、貯金通帳に記帳されている数字の桁の多さも、無常の前では無力です。わたしは、いつも心のどこかに不安や寄る辺のなさを感じている少年でした。

この思いは、知識としてではなく本当に仏教に出会うまで消え去ることはありませんでした。

東日本大震災の数か月後、私が母の腰を揉んでいると、母がこんなことを言いました。「私は何の不自由もなく、あんたにこうして腰を揉んでもらっている。本当に幸せよ」

その時、わたしは母にこう言いました。

「おばあちゃん、3.11の映像をテレビで見たよね。昨日まで楽しく家族と笑顔で暮らしていた人が、今日、一瞬で家族も家も失ってしまうこともある。それがこの世だよ。今から数分後、大地震が来て、息子や孫が死んでしまう。そんなことがあってもちっともおかしくない。その中でのおばあちゃんの幸せだよ」

わたしは母に意地悪でこのように言ったわけではありません。無常はこの世の真実です。ですがこの言葉を母に発したとき、わたしには不安や寄る辺なさはありませんでした。その頃は、それなりに仏道修行をして、仏教に出会っていたからです。

仏教の智慧と慈悲にわたしは救われました。ですがわたしの真の仏道修行は、今始まったばかりだと感じています。これから多くの方々と出会って、共に仏の道を歩んでいきたいと思っています。