体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

嵐の中で静けさを感じていたい

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無常の世に生きる不安、寄る辺のなさを超えることなく、わたしは成人しました。ですが、無常の世を超えたいとは思ってはいても、無常であるこの世を否定していたわけではありません。

日蓮聖人は、「極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず」と言われました。穢土というのは無常のこの世です。

山奥の寺に籠って、人間関係のややこしさから逃れてする修行よりも、世俗の中でいろいろな問題に直面し、それを味わい乗り越えていくのが、本当のたましいの修行なんじゃないか。そのようにわたしは感じていました。

父も祖父も、おじたちも皆、経済界で生きてきました。そのような道を歩むことが親族の中では自然なことでした。ですが、わたしは資本主義の競争社会の中で利潤を追求し、出世栄達を目指す生き方にはなじめませんでした(親族からは「アイツは変わり者だ」と言われていました)。経済学部で学ぶという選択肢は、わたしにはありませんでした。

わたしは、国語科の教員となる道を選びました。そして結婚をしました。

教員採用試験を受ける前、まだ大学生の時に、わたしは、妻の両親に、妻との結婚を認めてもらうために、山形の妻の実家まで赴きました。真冬で、到着するとすぐ雪掻きをしたことを覚えています。

教員になれる保証はどこにもありません。かなり無謀であったと思います。しかし、妻の見合い話が進んでおり、それを阻止するために、そうせざるを得なかったのです。

妻の父からは、酒が入っていたこともありますが、「オマエが娘を裏切ったら、包丁を持ってどこまでも追いかけて行って、刺すぞ」と言われました(その義父はもう亡くなりましたが、約束は守り、義父から刺されるようなことはしておりません)。

わたしは大学を出た年の4月に都立高校の教員となり、その年の8月に結婚しました。

自分で選んだ道ですが、教員生活は大変でした。

人間関係の嵐のなかで生きることとなり、モンスターペアレント対策で訴訟保険にも入りました。最初に赴任した定時制高校は、校舎内の一階の廊下を生徒がバイクで走るような学校でした。

大学の恩師は、わたしのことを世間知らずの坊ちゃんだと思っており(今思えば、たしかにそれは否めませんが)、「その定時制高校で、荒波を被ってってやっていけるのか」と心配していました。

生徒を叱ると「先生、埋めるよ」と言われたこともあります(刺されるより埋められる方が怖いです)。学校は、わたしにとってまさに魂の修行の場でありました。

そして結婚生活もまた、魂の修行でした。

妻が作った弁当を食べていているわたしを見て、後輩の教員が「愛妻弁当ですか」と言ったとき、「いや、恐妻弁当だよ」と答えたことが思い起こされます。

わたしは、厳しい環境の中にあって、外は嵐でも心の中は静けさと平安に満たされて生きたいと、切に願っていました。

そして、そのような自分になるため、教員生活の傍ら、本格的に仏教を学ぼうと思い立ちます。

家の宗旨が浄土真宗願寺派でしたので、縁のある本願寺派が設立した中央仏教学院という学校の通信教育課程に入学しました。年に何回が築地の本願寺で行われるスクーリングへの出席が求められますが、教員生活との両立は可能です。いずれは浄土真宗の僧侶になりたいという思いもありました。

ですがこの学校は自主退学することとなりました。

今、日蓮宗の僧侶となったわたしは、南無阿弥陀仏を称えてきた先祖の位牌の前で、南無妙法蓮華経を唱えています。妻は「ご先祖さまが怒っているかもしれないわよ」と言いますが、わたしは南無妙法蓮華経をを唱えて、先祖の魂と響きあっていることを実感しています。

なぜ浄土真宗ではなく日蓮宗の僧侶となったのか。そのわけは次回に記すことにしましょう。