体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

法華の僧ですが、お念仏を称えていました。

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前回の記事「嵐の中で静けさを感じていたい」の最後に、こう記しました。

「なぜ、浄土真宗の僧侶ではなく日蓮宗の僧侶になったのか。そのわけは次回に記すことにいたしましょう」

このことを記すにあたっては、少々ためらいもあります。浄土教系の宗派の僧侶や信徒の方にとっては、快く感じられない記事になるかもしれませんので。

ですが、このブログのタイトルは「体験する仏教」です。ブログを継続していくためには、仏教者としてのわたしの体験を、ありのままに綴る必要があるだろうと考えています。ということで、そのわけを記すことにいたします。

わたしが浄土真宗の教えを学ぶ仏教学院で学んでいたのは三十代半ばのこと。この仏教学院で学んでいたころは、南無妙法蓮華経ではなく、南無阿弥陀仏を称えていました。

高名な浄土真宗の僧侶が「お念仏は自我崩壊の音である」とおっしゃっていました。これは、自己を誇る思いが崩れ去っいくのがお念仏だということでしょう。

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は自分のことを愚禿、つまり愚かな禿(はげ)と言われました。

「自分は、人からお坊様と呼ばれてはいるけれど、煩悩に満ち溢れていて、肉欲も如何ともしがたい」そのように、親鸞聖人は自分がどうしようもない凡夫であるということを自覚されました。「愚禿」という言葉には、そのような思いが込められています。

親鸞聖人のお師匠さまで、浄土宗開祖の法然上人は「どうしようもない凡夫を救ってくださるのが阿弥陀如来である」と説かれました。

親鸞聖人は自分のどうにもならない煩悩を徹底的に凝視して絶望しました。この絶望の中で法然上人と出会われたのです。そして光明を得ました。

人を恨んだり、妬んだり、裏切ったりする自分。このような自分を自己正当化することなく、真正面から見つめる。そのとき自我が救いようのないものであるという自覚に至ります。

このような自分を阿弥陀如来がお救いくださることを信じ、その慈悲を心に感じ、やすらぎの中で感謝して生きるのが念仏者です。。

生徒も教師のわたしも救われようのない凡夫だと認識すれば、問題行動を起こす生徒を許すことができます。生徒に優しくなれます。

ですが、「わたしも君たちも、煩悩に満ちた、どうしようもない凡夫です。共に阿弥陀如来に救いとられて、極楽に往生しましょう」といった思いを抱いて教壇に立つことは、わたしには、どうもしっくりときませんでした。

浄土教に「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」という言葉があります。「この汚れたこの世界を厭(いと)い離れ、浄土をこい願う」と言う意味です。

日蓮聖人は「娑婆即寂光(しゃばそくじゃっこう)」と言われました。「この私たちが住む娑婆世界こそがお浄土である」という意味です。「厭離穢土・欣求浄土」とは対照的な言葉です。

親鸞聖人は、愚かな自己が阿弥陀如来に抱かれて、救いとられたことへの感謝のお念仏を称えられました。一方、日蓮聖人は、妙法蓮華経の五字の光明に包まれて、永遠の仏陀と一つになり、自己が仏であることに目覚めていくお題目をお唱えになりました。

わたしは、死後よりも現実の世界と向き合い、この世で自己が仏であることに目覚めていく教えに心が傾いていきました。そしてお念仏の教えから遠のくこととなりました。

お念仏の教えから離れてから、こんなことがありました。

ある日、授業をしていると、後ろの方で漫画を読んでいる男子生徒がいるのを見つけました。私は、生徒たちに文法の問題を解くように指示したあと、その生徒のところに足を運びました。そして彼の前で合掌しました。

それに気づいた男子生徒は、びっくりして「エッ、先生どうしちゃったの」という顔をしています。

私は彼に言いました。「わたしは、授業中に漫画を読んでいる君に合掌しているのではない。君の内に眠っている可能性に合掌しているのだ」

わたしの言った「可能性」とは、「仏性」と呼ばれるもの、つまり仏になる可能性です。怠けてマンガを読んでいる生徒の内にも、仏になることのできる尊い可能性が秘められているというのが法華経の教えです。

その日、勤務を終えて帰宅する途中、仲間と下校するその生徒とばったり出会いました。そこは人通りの多い道でしたが、彼は、わたしに向かって合掌し、頭を下げ「先生、さようなら」と言いました。

わたしは焦って「こんなところでやめてくれよ」と言いました。仲間たちはクスクス笑っていました。これを目撃した人は、間違いなく私を「怪しいおじさん」と思ったことでしょう。

彼とは、彼が卒業して大人になってから、酒を飲む仲となりました。

生徒たちは仲間に、よく軽いノリで「お前、死ねよ」と言っていました。私はそれを聞くと、半ば冗談ですが「死んではいけない、生きろ!」と、真面目な顔をして叫んでいました。

言われた生徒は、笑いながら「生きます!」と応じていましたが、「生きよ!」は法華経の発している大切なメッセージです。

中世の浄土教のお坊さんの言行を記した『一言放談抄』という本がありますが、そこにこんな話が載っています。

昔あるところに、ちょっとした味の違いも見分けることができる、非常に味覚に優れたお坊さんがいました。このお坊さんのところへ信徒が、おいしい汁や食べ物を持っていくと、そのお坊さんは、あえて塩を振りかけて、味を台無しにして食べていました。

なんでそのようなことをするのかを聞くと、そのお坊さんはこう言いました。

「美味しいものを食べていると、この世に執着してしまう。この執着を絶って、お浄土に往生できるように、このようにしているのじゃ」

お題目を唱える僧とこの念仏僧の生き方の違いは際立っています。お題目を唱える僧侶は、この世を大切にして、この世で自己が仏であることに目覚めていく道を歩みます。

わたしは、これまでに自己の愚かさを痛いほど思い知る経験をたくさんしてきました。ですが今、その自己の内にある仏性を信じ、南無妙法蓮華経を唱えています。