体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

霊の存在を前提として供養しています

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なぜ、わたしがお念仏からお題目に移ったのか。「法華の僧ですが、お念仏を称えていました」ではお伝えできなかった、もう一つの大きな理由があります。

それは、「人は死後、どうなるのか」という疑問に、お念仏の教えが明確な答えを用意していなかったということです。

多くの人は、「お坊さんは、死後のたましいの存在を認めているのだろう」と思っていようです。ところが、そうではないのです。宗派によってその比率は違いますが、非常に多くのお坊さんが、死後は無に帰ると考えています。

仏教では「輪廻、生まれ変わりを言うではないか」と、このことに疑問を持つ人もいるでしょう。ですが近代仏教学の世界では「輪廻説は仏教本来の考え方ではない」という説が主流であるのです。

お坊さんになるためには、大学の仏教学部などで近代仏教学を学ばねばなりません。そこで学んだお坊さんたちは、死後の世界とか霊魂を否定するようになります。

特に無霊魂説に忠実な僧侶が多いのが浄土真宗です。霊が実体を持った存在であるとみなしている浄土真宗のお坊さんには会ったことがありません。「じゃあ、死後にお浄土に往生する主体は何なの?」という疑問も生じます。

この点について、浄土真宗は明確な答えを用意しているようには思えません。怒りも憎しみも消えてなくなり、夢をみることもない、永遠の眠りがお浄土だということなのでしょうか。

なぜ、死後、肉体も心も消えて無くなってしまうと考えているお坊さんが葬儀でお経をあげるのでしょうか。それは遺族の悲しみを癒すグリーフケアのためです。

つい最近も朝日新聞で、僧侶が書いた「葬儀は生きている人のため」というタイトルのエッセイを読みました。この僧侶は臨済宗の方ですが、どの宗派にも、死者のケアではなく、生きている人のグリーフケアのために葬儀・法要を営んでいる僧侶が多くいます。

浄土真宗は死後に残る個性、つまり霊魂と呼ばれるものを明確に否定しています。ですから水子供養も一切しません。

「私がうつ状態なのは、ひょっとしたら霊が憑依したりしているからでしょうか」などと、浄土真宗の僧侶に相談したら、「霊の憑依などと言うものは迷信です。あり得ません」とバッサリ切り捨てられます。

死んだらどうなるのか。わたしは、このことが幼いころからずっと気になっていました。

子ども時代の一時期、このことが気になるのはよくあることです。わたしの次男も小学生のころ、このことを気にしていました。ですが勉強や部活動が忙しくなって、その疑問や不安はどこかに行ってしまったようです。まあ、これは健全なことなのでしょう(今、小学生から「死とは何か」を問われたときには、自分の思いと体験を分かりやすく伝えていますが)。

健全な普通の子どもとは違って、わたしは、死とは何かについて、ずっと考え続けていました。そして、仏教少年であったわたしは、心霊研究にも関心を持ちはじめました。財団法人・日本心霊科学協会というところの会員だったこともあります。

そこで得たわたしの結論。それは、「霊は決して人々の観念としての存在ではない。死後も人の個性は存続する」というものでした。わたしは、供養とは、死後の個性(霊)と響き合うことであり、その個性への感謝と癒しであると認識するようになりました。

なぜ「死後の生」を確信するに至ったのか。記すと大変に長くなります。それは今後のブログの記事で徐々に触れていきたいと思います(その一端は、要唱寺のHPに連載中の「僧侶の唱題体験記」に記しています。)。

遺族の悲しみを癒すことは大切です。ですが、霊というものが実在するのだとしたら、当然、その霊を癒し、霊がが救われるように祈ることも必要となるでしょう。その祈りを、霊魂を否定する教えに基づいたお念仏によってすることはできませんでした。

わたしは斉藤大法上人の下で、お題目を唱える修行をしていく中で、唱題中に、霊や生きている他者の思いが心の中に映じてくるようになりました。さらには、その思いが浄化されていくことも感じるようになりました(わたしの体験は未熟なもので、この先に道はずっと続いていますが)。

今わたしは、霊魂の世界の探訪(心霊研究)で得られた知見によるだけではなく、霊の存在を身をもって感じ、供養をさせていただいています。これは、わたしにとって何よりも有り難いことです。