法華経の中の最も重要な箇所、「自我偈(じがげ)」は、つぎのような永遠の仏陀の言葉で締め括られています。
「わたしの心からの願いは、何としても一切衆生を無上の悟りの道に入らしめて、速やかに私と同じ仏の身とすることなのである」
御仏の慈悲がひしひしと感じられる法華経の要文です。原文も紹介しておきましょう。
毎時作念(まいじさねん) 以何我令衆生(いがりょうしゅじょう)得入無上道(とくにゅうむじょうどう) 速成就仏心(そくじょうじゅぶっしん)
この経文は「破地獄の文」と呼ばれることがあり、古来、死霊の苦痛を除く時などに誦されてきたといいます。
昔は、天皇が即位する際に、関白家がこの経文を、お称えして天皇に授け奉ったという話を聞いたことがあります。
「永遠の仏陀のように、天子様も衆生に大いなる慈悲をお与えください」 そのような思いで、新しく即位された天皇にこの経文を捧げたのでしょう。
わたしは問題児を真に慈しむ教員になりたいと願って、この経文を誦したことがあります。
こんな質問をする人がいます。
「永遠の仏陀が慈悲ある方なら、なぜこの世から争いや病や貧困を一掃してくださらないのでしょうか。」
またこのように問う人もいます。
「仏に真剣に祈ってみましたが、願いが叶いませんでした。祈りは気休めに過ぎのでしょうか。」
このような質問をする方に、わたしは次のようにお答えします。
「永遠の仏陀は、わたしたちを常に慈しんでくださる、親のような存在です。このことに間違いはありません。ですが愚かな親ではありません。
愚かな親は子どもが欲しがれば何でも与え、どんな願いも聞き入れます。これでは子どもは、わがままでひ弱な人間に育ってしまいます」
フランスの哲学者、ルソーはこんなことを言っています。
子どもを不幸にする最も確実な方法は、いつでも何でも手に入るようにしてやることだ。
永遠の仏陀の悲願は、わたしたちが仏に成ることです。困難や苦しみを経て,わたしたちは人の痛みがわかるようになり、優しさを持ち、仏へと近づいていきます。それゆえ、わたしたちの成長を願う仏陀は、頼めば何でも聞いてくれるわけではありません。
わたしたちの今の結果は、自らが過去に蒔いた因という名の種によるものです(これを「因果の理」といいます)。このことに気づかず、仏に苦しみを解消してもらうのは、自分の過ちの責任を親に肩代わりしてもらうのと同様です。これは甘え以外の何ものでもないでしょう。
新春、大きな寺社に参詣すると、手を合わせ祈っているたくさんの人を目にします。これらの人たちについて、ニュースでは「大勢の善男善女が参詣し・・・」と報じています。ですがわたしは、善男善女は大勢ではなく、ごく少数だと思っています。それは、自らが過去に蒔いた種に思いをいたし、省みることもなく、我欲の祈りをしている人が大多数だからです。
本当の信仰者とは、どんな困難の中にあっても、常に御仏がそばにいてくださることを感じ、感謝の心をもって、力強く仏と成る道を歩んでいく人なのではないかと思います。
蓮は泥の中で美しい花を咲かせます。泥がなければ花は咲きません。人も同様です。泥のような憎しみや裏切りに出会い、それを味わって仏へと成長していくのです。人は、水栽培のヒヤシンスではありません。
多くの人は泥を嫌いますが、泥があってこそ、人生で人が感動する花を咲かせることができるのです。ですから、仏は、泥を取り除いてくださらない、すなわち願いを叶えてくださらないこともあるのです。