体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

現世利益(げんせりやく)を求めて祈ってもいいのですか。

f:id:kasinoki1957:20211203170024j:plain

「現世利益を求めて祈ってもいいのですか。そもそも、御仏はこの世の利益を与えてくださるような存在ではないのではありませんか」真面目な信仰者から、そう質問を受けたことがあります。

「お題目(南無妙法蓮華経)を唱えれば、病気が治ります。経済的に豊かになります。お子さんの受験合格も間違いなし」そんなことを言って、現世利益中心の(というか、それのみの)お題目信仰を勧める人がいます。

わたしに質問された方は、このような信仰のあり方に疑問を持っていたようでした。もっともな疑問だと思います。

キリスト教を信仰する知人は、この世での御利益を求めて一所懸命にお題目を唱えている人たちを蔑(さげす)みの目で見ています。

本来、仏教もキリスト教も、その教えは、現世利益に焦点を絞ったのもではありません。現世を超えた聖なる世界に目を向けるのが、まっとうな宗教であると言うこともできましょう。仏教の目的は仏と成ることです。

ところが、天台座主天台宗のトップ)に立たれた故山田恵諦師は、必死の思いで現世における利益を祈った経験を持っています。

恵諦師が、第二次世界大戦中、沖縄から内地に働きに行く千五百人の中学生の男女を乗せた輸送船に同乗することになった時のことです。

当時、輸送船はことごとくアメリカの潜水艦によって撃沈されていました。恵諦師は、子どもたちを一人も死なせてはならないと、出発前の二十五日間、睡眠時間も切りつめて観音経を上げ、乗船中も命がけで観音経を唱え続けました。

その結果、全員が無事に内地に渡ることができたのでした。

先ごろ亡くなった、天台宗の僧侶、瀬戸内寂聴師は、恵諦師に現世利益について質問したことがあります。寂聴師は、そのとき恵諦師が語った、つぎのような言葉を紹介しています。

「わずかな教養が邪魔をして、それ(現世利益があること)を断言し難いものだが、真剣で純粋な祈りには、必ず仏の御利益がいただけるのだよ」

純粋一途な現世の祈りは叶えられるということを、わたしも実感しています。

わたしは、息子が重篤な病に罹り、死と隣り合わせになったとき、御仏に必死で祈った経験があります。息子は無事に病から回復し、わたしは御仏に感謝の祈りを捧げました。

先日、知人と待ち合わせをしていた東京都品川区の地区センターに早く到着したので、ロビーの椅子に座って法華経を読んでいたことがありました。その時のことです。

七十代と思しき老婦人が傍にやってきて「あら、お経を読んでいるの」と話かけてきました。その老婦人は、或るお題目系の新宗教団体の会員であるということで、その会に入信すると、すごい現世利益をいただけるという話を、得々とわたしにしました。

わたしは静かに拝聴していましたが、その老婦人が最後に言った言葉に驚愕しました。

「それで・・・、あんたお金を貸してくれない。千円でいいからさ」。

老婦人は身なりからしても金銭的に困窮しているようでした。わたしは彼女に「その会に相談してみたらいかがですか」と言うと、さらに驚くべき言葉が返ってきました。

「あの会は、お金を取るばかりで、貸してなんかくれないわよ」

わたしは彼女を、すぐ近くにあった、高齢者に仕事を紹介する品川区の窓口に連れていきました。その後、気になったので、窓口の人に「あの女性はどうされましたか」と訊くと、ろくに説明も聞かず出て行ってしまったとのことでした。

戦後、多くの新宗教、特にお題目系の新宗教は、現世利益が得られることを標榜して発展を遂げてきました。

神仏の御利益は確かにある。だが、そのご利益は思い込みであったり、洗脳によるものであったりすることが圧倒的に多い。それがわたしの思いです。

このブログのタイトルも「体験する仏教」ではなく「体験するご利益信仰」に改めたら、アクセス数が急激に伸びるかもしれません(そうするつもりはありませんが)。

中には思い込みでも洗脳でもなく、本当に欲望に満ちた祈りも叶えてくれる僧侶がいることもわたしは知っています。このことについては、またいずれ、別の記事で触れたいと思います。

わたしは、欲望を充足させ、エゴを肥大化させるようなものでなければ、現世利益を御仏に求めてもよいのではないか考えています。またその祈りを御仏が聞いてくださることを感じています。

心に苦しいみを抱えている人に、次のように言ったら、どのような反応を示すでしょうか。

「仏教は自己の内なる仏に目覚める道です。目覚めるためにお題目を唱えましょう」「共に菩薩道に励みましょう。菩薩道とは他者の幸せを祈り、他者に寄り添う道です」

これは正論ですが、こう言ったら「はあ、そうですか。それはすばらしい。立派な教えですね。でも、今のわたしには難しすぎます」といって、仏教から離れていってしまうのではないでしょうか。

苦しんでいる人には、まず何よりも、今直面している苦しみから抜け出すこと、癒されることが必要でしょう。そのための祈りがあってもよいのではないかと思います。

唱題(お題目、南無妙法蓮華経を唱えること)の実践も、スタート地点にあっては、目覚めるためのお題目ではなく、癒されるためのお題目です。

「お題目で癒されました」という声を聞くのは、わたしにとって何よりも嬉しいことです。