体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

運命は決まっているのでしょうか?

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学生時代、「教育原理」という科目の時間、教授が「人はみな白紙で生まれてきます」と言ったとき、「それは違うな」と思った記憶があります。

生まれたばかりの赤ん坊の顔立ち、表情にはそれぞれ個性があります。その顔立ち、表情に、良きものも悪しきものも含めて、わたしは、その子が負ってきた業(カルマ)を感じることがあります。

わたしには二人の息子がいますが、病院で初めて対面したとき、それぞれの業を感じ、その業を乗り越えていくのに相応しい名をつけました。

二人とも、とうに成人して、それぞれの個性を発揮して社会生活を営んでいますが、わたしの感じた業を顕在化させて生きています。

妻には、息子の名づけの際に、彼らに感じた業を話しました。日常生活の中で、だらしのないわたしは、よく妻に叱られています。ですが、わたしが生まれたばかりの息子に感じた業については、妻は、正しかったと全面的に認めています。実は妻もわたしと同様のことを、我が子の誕生時に何となく感じていたようです。

わたしは、「運命は決まっているのでしょうか」と質問されると、「決まっていますが決まっていません」とお答えしています。

それは、この世における、いのちの流れは、生まれる前から決まっているけれど、その流れに反した生き方をすることもできるという意味です。

またそれは、流れの中で生きていたとしても、その中で味わうべき喜びを味わうことをせず、学ぶべきことを学ばずに生きるという生き方を選択することもできると言う意味でもあります。流れの中にあっても、その流れを受容して学んで生きるのと、そうでないのとでは、まったく違った人生になります。

では、この世に誕生する前に、どのようにして人生の流れが決まるのでのでしょうか。その決定要因となるのが業です。悪しき業を解消し、良き業をさらに促進するようなかたちで人生の流れは決まります。この流れを幼いころから自覚しているたましいもありますが、それは少数です。

貿易会社を経営している女性がいます。。

実は彼女は、十代の頃から、深窓の奥様となる未来を思い描いていました。信頼できる主人から愛され、守られて、一切社会に出ることなく、苦労のない穏やかな人生を送りたいと願っていたのです。

二十代後半、彼女の願いは叶いました。心から尊敬出来て、自分の身を安心して委ねられる素敵な男性と結婚できたのです。彼は、小さいながらも貿易会社の社長でした。

ところが、結婚して十数年後、夫は病に冒され、あの世へと帰ってしまったのです。彼女は呆然自失しました。ですが絶望の中でうずくまっているわけにはいきません。生きていかなければなりませんし、夫の会社の社員とその家族の生活も守らなければなりません。社員たちは若者ばかりで、会社を経営する手腕はありませんでした。そこで彼女は夫の会社を引き継ぐ決心をしたのです。

最初は不安でした。ですが、それまでまったく自覚していませんでしが、自分に経営の才があることに気づいたのです。彼女は語学に堪能で、人心を掌握する術にも長けていました。亡き夫の貿易会社は、彼女が引き継いでから、大きく発展しました。

彼女の人生の流れ。それは夫に守られて生きる流れではなく、世の荒波の中で自らの力で人生を切り開いていく流れであったようです。そのことにまったく気づかないままに彼女は素敵な男性と出会って奥様となったわけです。

夫が若くして亡くなったことは、誰の目にも不幸に映りました。ですがそのことが契機となって、彼女は、自分の人生の流れに気づくことができて、流れに沿って生きることで幸せになったのです。

流れに気づいても、鬱(うつ)になって引きこもる道もあったでしょうし、再婚相手を探す道もあったでしょう。しかし彼女はそのような道を選ばず、勇気を出して、生まれる前から決まっていた人生の流れに沿って生きはじめました。そのことで彼女の人生は大きく開花したのです。

人生における真の意味での成功者となる秘訣。それは自己の人生の流れに気づき、流れに沿って生きることであると、わたしは感じています。

詩人の高村光太郎は『道程』に「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」と記しました。

わたしの修行ノートには「僕の前には僕だけの道がある。この道を生きることで、僕の後ろに幸せな道が出来る」と記されています。