人生で成功するためには、ポジティブシンキングが必要だとよく言われます。わたしもこのことを認めています。ですが、そこには落とし穴があることも感じています。
教員時代、医療や福祉関係の仕事に就きたいという生徒と何人も出会いました。その理由を訊くと、たいがい「病んでいる人を助けたいからです」とか「社会に貢献したいんです」というポジティブな答えが返ってきます。
それを聞いて、「そうか、がんばれよ」と何のわだかまりもなく言える生徒もいれば、何か違和感を覚える生徒もいました。「この違和感はどこから来るのだろう」そう思いながら、生徒と対話していると見えてくるものがありました。
純粋な喜びからではなく、世間から評価されたい、世の中から必要とされる存在でありたという思いから医療、福祉の仕事を目指している。それが違和感の原因であることにわたしは気づきました。
このような生徒の心の奥には、「自分は能力が低い」とか、「自分は認められていない」、「愛されていない」といった思いがあることを感じます。
ポジティブシンキングには、偽りのポジティブシンキングもあるということを、わたしは知りました。
多くの場合、本人自身は自分のポジティブな思考の奥に潜んでいるネガティブさに気づいていません。このことに気づかずに希望する仕事に就いて、社会から認められようと努力をすればするほど、ネガティブな自己イメージは強化されてしまいます。光を強めると同時に影も深くなるのと同様です。
若いころ、勤務していた定時制高校の教頭のところに、看護師となっている教え子の女性から電話が掛かってきたことがありました。かなりの長電話で、「なぜ君はその男と分かれないんだ」といった教頭の言葉が耳には入ってきます。電話を終えた後、教頭はこんな話をしました。
「彼女は実に優秀な看護師なんだけれどね、男運がわるいんだよ。今まで三人の男と付き合ってきたんだけれども、どいつも定職に就かず、彼女の収入に縋っていきて生きようとするやつばかりなんだ。今も司法試験を受けて弁護士になると言いながら、ろくに勉強っもせず、彼女の稼ぎを当てにしている男と生活してるんだよ」
わたしはその女性は、男運が悪いのではなく、無意識のうちに自らそのような男性を選んで付き合っているのではないかと感じました。
教頭から彼女の高校時代の話などを聞いていく中で、わたしは、彼女には、「人から必要とされたい」という強い思いがあることを感じました。その思いがあって、看護師という仕事に就いたのでしょう。
その根底には、わたしが違和感を抱いた、先の生徒たちと同じように「わたしは必要とされていない」、「愛されていない」と言う思いがある気がします。この思いから逃れるために、彼女は一生懸命、男性を養ってきたのでしょう。
深層の意識で、このように思って生きている、偽りのポジティブシンキングをしている人は案外多いようです。
人と関わり、人をケア、サポートする仕事に就く人は、このような思いから解き放たれることが必要でしょう。そうでないと自己だけではなく、他者にも真に安らぎと生きる力を与えることはできません。
わたしは、教員を経て僧侶になりました。どちらも人をサポートする仕事です。僧侶になってからは、この世の人だけではなく、あの世のたましのケアもすることとなりました。
わたしは、もともと積極的、前向きな人間ではありません。このような仕事に就いてこれたのは、ひとえに法華経のおかげです。
つまずいても転んでも、誰もが何時も仏の慈悲の中に生かされている。
法華経と出会って、自然とこう思えるようになりました。法華経によって、わたしは深く癒されました。また、唱題をしていく中で、自分の本当の思い、願いが見えてきました。法華経は自己の心を映す明鏡です。
自分の本当の願い、思いに気づくのは簡単ではありません。仏教はそのための大きな力を持っていると実感しています。