自我とは「自分」のこと。「自分の意志や心」の意味で使われる言葉です。
心理学者のフロイトは、本能的欲求を「エス」と呼び、良心、道徳心を「超自我」を呼びました。フロイトは、この両者を統制し、社会や現実生活に適応させる意識を「自我」と定義しました。子どもが成長する過程で「自我」は目覚めていきます。
「今日は嫌いな授業があるから、学校をサボってしまおう」という「エス」対「サボって逃げてはだめだ。ここで頑張らなくてどうする」という「超自我」といったように、「エス」と「超自我」はしばしば対立します。この双方の折り合いをつけるのが「自我」です。
「自我が強い」とか「自我が弱い」と表現することがありますが、自分の意志で行動しようとする主体性が明確にある人が自我の強い人、主体性が希薄な人が自我の弱い人ということになります。
「自我が強い」というのは、本来好ましいことですが、この言葉は「自己主張が強く、我儘である」ということを意味することもあります。自我のことを英語では「エゴ」と言いますが、「エゴ」は「自己中心主義」を意味する「エゴイズム」や自己中心主義者を意味する「エゴイスト」の略語としても使われています。
スピリチュアルな世界では、「自我の強い人は、精神的に未熟である」と認識されることが多いようです。エゴは悪者にされがちです。
「エゴは幻想です。人は魂の深い部分でみなつながっており、ワンネス(ひとつ)なのです」
このように周囲の人に語っている、「わたし、目覚めたんです」と言う、若い女性に、こんなことを言ったことがあります。
「つぎのような想像をしてみてください。あなたは、がらがらの電車に乗って、横並びの座席のいちばん端に座りました。すると次の駅で一人の中年男性が乗車してきました。ほとんどの席が空いています。それなのに、その男性は、あなたのすぐ横にピタリと身体を寄せて着席しました。さて、あなたはどうします。人は本来ワンネスなのですから、何の問題ないですよね。その人を信頼すべきですよね」
女性は困った顔をしていました。
スピリチュアルな世界では、「わたしたちは皆ひとつです」などと言って、「目覚めてたい」と思っている人からお金をだまし取っているニセ指導者が少なからずいます
この女性は、かなりの金額をスピリチュアルな世界につぎ込んできたようでした。
自我の根っこにあるのは、自分を生存させ、自分を守ろうとする、「自己防衛意識」です。そこから「恐れの感情」が生まれますが、これは現実の世界で生き抜いていくために必要なものです。自我は否定されるべきものではありません。
大切なのは、「自我」イコール「わたし」ではないということに気づくことです。深層意識の浅い部分には、抑圧された恐れ、不安、悲しみ、怒りなどのネガティブな感情が在りますが、心理学者のユングは、その奥に「集合的無意識」というものがあると言っています。そして、その最深部には仏性(仏としての本質)があります。
「わたし」というのは、その丸ごとすべてなのです。
カウンセラーや僧侶に対して、エゴ(自我)のない人という印象を持っている人が多いようですが、エゴが強くないとカウンセラーや僧侶として生きていくことはできません。わたし自身も、かなりエゴの強い人間だと思っています。相談者のみならず、霊的世界と向き合うのにもエゴの強さは必要です。
このことについては、また別の記事でお伝えしましょう。