体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

自我と霊媒体質・仏道修行

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沖縄修学旅行の初日、羽田空港でのことです。学年主任であったわたしは、集合時間の一時間以上前に空港の集合場所に着きました。まだ教員も生徒も誰もいません。

コーヒーを飲もうかと思っていると、一人の女性がわたしに近づいてきました。生徒であるS君の母親です。「おはようございます。実は息子のことで、先生にお願いがあって参りました」そうS君のお母さんは言いました。

平和学習の一環として、戦時下に沖縄県民が隠れたガマ(自然にできた竪穴の洞窟)に入ることを予定していましたが、我が子がガマに入らなくてよいように配慮してほしいというのが、お母さんの依頼でした。

わたしは即座に「承知しました」と答えました。それはS君が霊媒体質であると知っていたからです。詳細は省きますが、S君が授業中突然倒れたことがあり、そのことが契機となって、S君は自分が霊媒体質であることをわたしに打ち明けてくれていたのです。

霊媒体質者というのは、霊的過敏体質者です。霊媒体質者は、あの世の存在の想念を受け止める感度の高い受信器と言ってもよいでしょう。S君はまさに霊媒体質者で、霊に憑依されて苦しむことがしばしばあるとのことでした。

ガマの中ではアメリカ軍に追い詰められて、多くの沖縄県民が亡くなっています。手榴弾で家族全員で自爆した人たちもいます。もし、霊媒体質者のS君がガマに入れば、間違いなく彼は、心身に大きな変調をきたしたでしょう。

お母さんはわたしが了承したことで、ホッとした表情になりました。お母さんは「そのような我儘は許されません」とわたしに言われるのではないかと心配していたようです。わたしは「S君が霊媒体質であることは、彼から聞いて承知していますから」と言うと、お母さんは深々とわたしに頭をさげられました。

沖縄に着いて、ある断崖絶壁にS君と立った時のことです。S君は「海が赤い色に染まって見えます。何でですか」と訊きます。実際の海は美しく、赤く染まってはいません。そこは戦時下、ひめゆり学徒が身を投げて海が血で染まった場所でした。

実は公務員であるS君の父親も霊媒体質者で、父親は、S君を連れて日蓮宗のお寺に毎月参り、父子共に霊に翻弄されないよう祈祷してもらっているとのことでした。S君はお父さんから「もっと気持ちを強く持たなければだめだ」といつも言われているとのことでした。

お父さんの言う通り、霊的体質者は自我がしっかりとしてないと、霊的存在の想念に支配されてしまいやすいのです。霊媒体質でも自我がしっかりと確立している人は、霊的存在に苦しめられることが少ないないようです。

かつて同僚に、霊など存在するはずがないと断言する、四十代の女性の国語科教員がいました。こう主張しているのにもかかわらず、彼女は修学旅行の引率時、ガマに入ろうとしませんでした。体が震えて、なぜか怖くなったというのです。彼女は霊媒体質者で、自我で霊を否定していても、身体は霊を感受していたのでしょう。

仏道を歩むうえで、自我が確立されていないと、霊媒体質でなくとも危険です。ですが自我の壁が厚いと、自己の深層意識とつながることができず、仏としての自己に目覚めにことは困難となります。この辺が修行上、難しいところです。

唱題時、わたしは、理想を追求することもなく、自己を批判することもありません。自我を投げ打って、ただ全身全霊で唱題し、みほとけのなかに飛び込みます。すると、お題目の声が、計らいを超えて涌き起ってきます。この時わたしは「我が唱える唱題は我が唱題にあらず。みほとけの唱題なり」といった思いになります。

自我を否定せず、自我を超えて意識の最深奥にある仏性に目覚めていくのが、仏道を歩むということであると、わたしは感じています。