葬儀のときのお坊さんのお経は、ちんぷんかんぷん、何を言っているのか、まったく意味が分かりませんよね。これは当たり前なのです。日本語ではないのですから。
お経は、古代インドの言葉を漢文に訳したものです。お坊さんは漢文、すなわち中国語の古文を読んでいるのです。
この話を教員時代、「漢文」の授業ですると、こう言う生徒がいました。
「中国人なら、葬儀の読経を聴いて、意味を理解することができるわけですね」この言葉に、もう一人の生徒が反論しました。
「それは違うと思います。日本の古典、例えば源氏物語の朗読を聴いても、ほとんどの現代の日本人は理解できませんよね。それと同じで、中国語であってもお経は古文なのですから、一部の教養のある中国人にしか、聞いても理解できないのではないかと思います。」
この生徒たちの言葉に、わたしはこう答えました。
「実はどんなに教養のある中国人でも、日本人僧侶の読経は分からないのだよ。
日本人僧侶は、文法的に何ら間違いのない中国語の古文を音読している。にもかかわらず、なぜ中国人にも理解できないのでか。
それは発音に問題があるからなんだ。中国語の発音は時代によって変化しているということもあるけれど、何よりもその中国語の発音が激しい日本語訛なので中国人にも聴き取れないのだよ」
音読の「音」とは漢字の中国語による発音と理解されている人が多いのではないかと思いますが、正確に言えば、「音」とは、中国語の発音をまねて日本風に発音したものが定着したものなのです。日本人はこの「音」によって、中国語で書かれたお経を読誦してきたのです。
山形県で育ったわたしの妻は、中学時代、英語の先生の「ズス イズ アッ ペン」という山形弁の英語に続いて、教科書を音読していたそうです。
僧侶をはじめとする日本人のお経の音読は、これと同じようなものといってよいでしょう。
余談ですが、異文化体験研修でオーストラリアに生徒を引率したとき、発音の面で本当に苦労しました。「グッドモーニング」は「グッモ―ネン」、「サンキュー」は「テンキュ」と発音した方がよいといったことを学びました。
お経は、訓読されることもあります。訓読というのは、漢文を日本語の語順に並べ替え、漢文にはない助詞、「を」、「に」などを補って日本語の古文として読むことをいいます。
「如是我聞」を「ニョゼガモン」と読むのが音読、「是(かく)の如(ごと)きを我聞きき」と読むのが訓読です。訓読の際の日本語は、古文ですので、意味を理解するのに、やはり困難が伴いますが、音読するよりも訓読の方が分かりやすいと言えましょう。
お経を現代語訳で読む試みもなされていますが、これは普及していません。葬儀の時に、「如是我聞」を「わたしはこのように聞きました」と読誦したら、読経は威厳のないものになってしまいます。分からなくても漢文を音読した方が葬儀らしい厳かな雰囲気となります。
わたしは、聖書を読むにあたっても、口語訳よりも文語訳の方が好きです。「はじめに言葉があった」という口語より「はじめに言葉ありき」という文語の方が凛とした感じがします。
葬儀、法要の際には、参列者に、事前にお経の分かりやすい口語訳をお渡して、内容を把握していただいた上で、ふりがな付きのお経本で一緒に音読するのがよいのではないか。わたしはそう思っています。