体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

たましいの供養の実際・その1

f:id:kasinoki1957:20211223235304j:plain

昨日は昼間、高齢者の男性のお葬儀のお勤めをしたのち、夜は、斉藤大法上人の指導の下、Zoomで唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)の修行をしました。

昨夜の唱題では最初、眠くてしかたがありませんでした。眠気に襲われながら唱題をしていると、昼間、葬儀で御供養をした男性の姿が浮かびました。その後、わたしの唱題は、静かで優しいものに変化し、眠気は取れました。

唱題時、未浄化な霊と響き合うことで、わたしは眠くなることがあります。昨夜の唱題の眠気は、葬儀でご供養した男性の霊と響き合ったからのようです。その男性の霊は、葬儀時の読経、唱題では浄化しきれなかったのでしょう。Zoom唱題で、わたしはその男性の霊を、さらに供養させていただくこととなったようです。

そんな気がしただけで、それは、わたしの思い込みである可能性もあります。わたしは未熟ですので、そうであると、はっきりとに分かったわけではありません。ですが昨日のZoom唱題修行の後半で、大法師から、男性のみたまが浄化していったことを告げられ、やはりそうであったのだと得心しました。

さて、今わたしは、上記のようなことを記してしまって大丈夫だろうかと、ためらいを感じながらパソコンに向かっています。ためらう理由は二つあります。

一つには「唱題時、未浄化霊と響き合って眠くなることがある」と記すと、わたしが霊媒となって供養していると思われるのではないか、ということがあります。そして、二つ目には、「唱題の声が変化する」(変化させるのではありません。自ずと変化するのです)と記すと、これは通常はないことですので、心身に変調をきたして、おかしくなってしまったと思われるのではないか、ということがあります。

このような唱題時の状態を記すと、わたしのことを「近づきたくない人」と思う人が出てくる可能性は大です。他の僧侶からは、「仏道から逸脱した僧侶」と思われるかもしれません。

ですが、このブログを今後継続させていく上で、この二点について、明確にしておく必要があると感じています。大法師の下で、わたしがどのような供養をさせていただいているのかを紹介しようと思います。

はじめに、わたしは霊媒ではないということことをお伝えしておきます。霊媒とは何か。辞書には次のように定義されています。

生きている人間が、死んだ親族などと話ができるように、死者の霊魂を乗り移らせて、死者に代わって口をきく媒介者。(『新明解国語辞典』)

霊媒には、いかがわしさが付きまといます。そもそも「死者の霊魂」なるものが存在することは科学的に証明されていません。その実在を認めるとしても、霊媒と言われる人が、本当に死者の霊魂を乗り移らせているのかは、定かではありません。霊媒と名乗る人が、いかさまを働くこともあり得ますし、精神疾患の場合もあるでしょう。ただの思い込みの場合もあります。ですが、わたしは心霊の研究を続けてきて、真正の霊媒が存在することを確認しています。

辞書の「霊媒」の定義に「死者の霊を乗り移らせて」とありますが、実際には「乗り移らせる」のではなく、霊が「勝手に乗り移ってくる」、言い換えれば、霊に不法侵入されることが往々にしてあります。

霊能力者とか霊能者と呼ばれる人とは、わが身に霊を乗り移らせることができ、かつ霊の不法侵入を許さない力を持った人です(ほとんどの霊能者は「自称」で、ニセモノの霊能者が圧倒的多数ですが)。

霊媒は、霊能者のような力はありませんが、霊に対する感度が鋭敏です。そのため霊に支配されたり翻弄されてしまうことが頻繁にあります。その感度の高低はさまざまですが、感度がさほど高くない人は、霊媒体質者と呼ばれています。

霊媒体質の人はかなりの数、存在しています。霊媒体質者が、自分がおかしな霊の影響を受けていることに気づかず、高貴な霊からのメッセージを受け取っていると勘違いしている姿を、わたしは少なからず見てきました。勘違いが高じて教祖さまになってしまった人もいます。まさに「近づきたくない人」です

「霊の不法侵入」は、一般的には「憑依」と呼ばれていますが、わたしが唱題時、未浄化霊と響き合って眠くなることがあるというのは、憑依とはまったく別次元のことです。

また、わたしは霊能力者でもないので、自分の身体に霊を呼び入れたり、わが身に不法侵入してきた霊を、自らの力で除霊したり浄霊したりすることもありません。そもそも、そのようなことはできません。

このことの詳細については、あらためて別の記事でお伝えすることにいたしましょう。