体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

たましいの供養の実際・その2

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昨夜、唱題をしていると、わたしは、口から舌をチロチロ出しはじめ、30秒ほどそれが続きました。意識的に行っているわけではありません。まるでヘビのような動きです。気持ちのよい動きではありません。しばらくすると、今度はイヌが吠えるような声が出ましたが、これはすぐに止みました。そのとは、力強く、かつ穏やかで、内から涌き上がってくるようなお題目に変化しました。

こんなことを記すと、不気味がられて、友達を失いそうです。ですが事実を記すことにいたしましょう。

唱題中、意図しない動きや声の変化が生じることは、しばしばあります。おととしの十二月、斉藤大法上人に唱題のご指導をいただくようになってから、しばらくすると次第にこのようなことが起こりはじめました。

これは、わたしが霊媒となって憑依現象を起こしたわけではません。憑依とはどのような現象か、簡単に説明しましょう。

憑依を受けた霊媒は、他の霊の意識の侵入を受けて、自分の意識は追いやられるため、ボッとした状態になります。このような状態は、トランス状態とか入神状態と呼ばれています。

トランス状態が深まると、その時、自分がどのような状態であったのか、ほとんど意識できなくなります。トランス状態の霊媒が、生卵を幾つか飲み込み、意識が戻ってから、こんなことを言った例があります。

「私は生卵が大嫌いなのです。そのわたしが、そんなおぞましいことをしたのですか」

生卵は憑依した霊の大好物であったのです。

一方、唱題中、声や動きに変化が生じている時のわたしの意識は常にクリアです。清明な意識で自分に生じている動きを観察しています。その動きを止めようと思えばいつでも止められます。

自宅で唱題していて、大音声の唱題になることがありますが、妻から「近所迷惑です」と叱られてからは、声を絞って集中を深めていくようにしています。

大法師から、全身全霊で唱題をするように指導されましたが、そうすると声が大きくなってしまうのです。静かな声で全身全霊の唱題をするのは大変に難しかったのですが、最近はなんとかそれができるようになりました。

以上のことから、唱題時の声や身体の動きの変化は、憑依によるものではないことがお分かりいただけるでしょう。ではどうして変化が生じるのでしょうか。

「自己の心中の鏡に他者の心の姿が映ずる」そんな感覚をわたしは持っています。霊媒が未浄化霊を憑依させた後は、疲労感が残ります。生卵が嫌いな人が生卵を幾つも飲み込んだとしたら、その後味の悪さはかなりのものでしょう。

ですが鏡は、汚物を映しても、そのあとに花を映せば、一切、汚物の残像を留めません。ということで、動きが生じ終わった後、わたしの心身に止まるものは皆無なのです。

冒頭に記したわたしの舌の動きですが、これはヘビの霊が心中の鏡に映ったのでしょう。この日、何人かの人とお会いしましたが、その中の一人は、今まで指導を仰いでいた霊的指導者と決別した直後でした。わたしの感覚では、ヘビの霊は、その霊的指導者からその人のところに送られてきた霊であったような気がします。その後、犬の霊が映じましたが、これも、どなたかとつながりのある霊であったのでしょう。

ブログの記事、「憑依の実態」では触れませんでしたが、人霊だけではなく動物霊が憑依することもあります。動物霊は人霊が変化した姿だと言う人もいますが、ヘビやイヌといった動物の霊は実在し、それが人に憑依することもあります。

因みに稲荷神社の眷属である狐霊は、この世に肉体をもって生きた狐の霊ではなく、龍神などと同様の自然霊と呼ばれる存在です。

さて、心中の鏡に映じた霊はどうなるのでしょうか。わたしは、その霊が御仏の光に照らされて浄化されていくことを感じています。

全身全霊の唱題は、自己の計らいを超えて、未浄化霊の浄化を促す祈りとなっているのです。供養は、霊の慰霊と浄化の祈念と言い換えることができますが、全身全霊の唱題は、正にたましいの供養となっているのです。

この唱題は、永遠の仏陀のいのちと一つにな営為です。永遠の仏陀の光に満たされる祈りであるのです。霊媒は未浄化霊に自己を明け渡しますが、唱題者は永遠の仏陀にに自己を明け渡します。そこに未浄化霊が不法侵入してくる余地はありません。

全身全霊の唱題を行っていると、自己のトラウマと共に、自己に縁するたましいも自ずと癒されていきます。唱題は、自己の癒しであると共に、憑依霊を浄化する行為ともなっているのです。

唱題時に動きが生じたり声が変化したりするのは、本質的なことではありません。むしろそれを求めることは弊害となります。ただひたすら永延のブッダと一つになろうと意識して全集中の唱題をする。そのことで、あなたも、あなたに縁するたましいも癒され平安を得ることができるのです。

たましいの供養は、僧侶でなくてはできないものではありません。あなたが先祖に向かって全集中の唱題をすれば、間違いなく、先祖のたましいを供養したことになります。

僧侶の在家との違いは、自己と自己の家系を超えて一切衆生の癒しと目覚めを祈るのことにあります。

在家には、他者、他家のたましいの救済は求められていません。在家にとっては、自己と家族、わが身に縁するたましいが癒され、目覚めるための唱題をし、自己の生業(なりわい)で社会をよりよくしていくことが正道でありましょう。さらに他者を仏道へといざなうことは、慈悲行としてお勧めしたいことです。。

わたしの主催する勉強会で『法華経』を学び唱題体験をした一人の男性が、突然、腕が上がらなくなってしまったことがあります。無理に体を動かしたといったことはありません。とても元気な人です。原因は読経と唱題にありました。

男性は、法華経がスラスラと声に出して読めるようになったのが嬉しくなって、隣の家に出かけ「供養してあげよう」と言って、お仏壇の前で、読経し、お題目をあげたのでした。そのことで、隣家の未浄化な先祖の霊を負ってしまったようです。わたしは男性に他家の先祖供養はお坊さんに任せるようにお伝えし、男性を祈念しました。ほどなくして男性の腕は、もとに戻りました。

安易に霊的世界に関わるのは危険です。ですが、本当の唱題は、間違いなくあなたとあなたの家族、先祖を幸せへと導きます。

率直に言って唱題には、横道に逸れた唱題もあります。本当の唱題を体験してみたい方は遠慮なくお問い合わせください。

また、本気で出家を目指したいと言う方があれば、応援させていただきます。

唱題の道は、どなたにも開かれています。