体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

出会いと別れは、人間に限りません。

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先日、二人の女性と対座修行をしました。対座というのは、一定の距離をとって二人が向き合い、合掌、正座して唱題(お題目、南無妙法蓮華経を唱えること)をすることです。この時、比喩的に言えば、山頂にいる永遠のブッダに向かって、向き合っている相手と共に山を登って行こうという思いを持って唱題します。目は閉じず、相手の目もしくは眉間のあたりを見つめて唱えます。

テルミさん(仮名)と向き合って唱題していると、わたしの唱題の声は次第に大きく力強いものとなり、部屋いっぱいに響き渡りました。唱題時は自我の計らいは捨てており、唱題がどう変化するかは分かりません。その涌きあがってくるような力強さに圧倒されびっくりしました。

わたしは、テルミさんの背後に、強い意志をもった霊を感じました。これはあくまでもわたしの感覚ですが、その霊は、真剣にお題目を唱えたいという切なる思いを持っているように思われました。

テルミさんはかつて、今は休眠状態にあるお題目系の小さな新宗教団体に入っていました。その団体に縁のある霊の存在をあなたの背後に感じますと、テルミさんに伝えると、「そうかもしれません」と、彼女は肯(うべな)っていました。

テルミさんは、日々、真摯にお題目を唱えている人ですので、お題目修行をしたい霊と響き合ったように思われます

わたしたちは、自分が世界に放っている思いと相応した霊と、無意識のうちに響き合っているのです。

「私、結婚願望があるのですけれど、なかなかいい人と出会えなくて・・・。不運なんです。どうしたらよい人と出会えるのでしょうか」そう質問する女性がいました。

「別に不運なわけではありません。すばらしい人と出会いたいのなら、まず自分が愛のある、すばらしい思いを世界に放つ人になることです。あなた精神性が低ければ、精神性の低い人としか出会えませんよ」

そう、わたしはお答えしました。

わたしたちは、霊とも人とも、同様の波動を持つ存在と共鳴します。

憑依されるのが怖いと言う人がいますが、清らかで高い思いを放つ人に、憑依霊は取り憑いていることはできません。すべては自己の波動に帰着するのです。

対座の話に戻ります。もう一人の参加者、カズコさん(仮名)は、わたしと対座すると、複数回、ゲップが出ましたが、終了後、彼女は爽やかな笑顔で「なんだかスッキリとしました」と言いました。未浄化な霊が離れていくとき、身体に反応がでることがあります。ゲップは、彼女が浄化されていく過程で生じたようです。

対座唱題の過程で、テルミさんは好ましい霊との縁が深まり、いっぽうカズコさんは、親しくなりたくない霊とサヨウナラをしたようです。

縁が深まったり、縁が切れたりするその原因は、この世の人間であっても霊であっても、すべては自分の放つ思い、波動にあるのです。

出会いと別れが人生を織りなしますが、人生には、人だけではなく、霊との出会いと別れもあります。人にしても霊にしても、よき出会いを求めるのは決して難しいことではありません。よき出会いに相応しい思いを放つ自分になればよいのです。

自己の放つ思いがすべて。つくづくとそう思います。