体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

めんどうくさがり屋でなくなるには

f:id:kasinoki1957:20220101204500j:plain

元旦、妻から「今年の抱負は何?」と訊かれました。

わたしは「頑張らないこと」と答え、狐狸庵山人(遠藤周作先生)の句を口ずさみました。

何事もする気はなくて寝正月

実際、本日、元日の午後、雑煮に餅を三つ入れて食べたら満腹になって眠気を催し、惰眠を貪ることとなりました。目覚めたら夕方になっていました。

年末はさまざまな所用に追われて疲れ果て、昨年の大晦日には、何もかもが、めんどうくさくなっていました。

わたしは、昨年の10月25日から毎日ブログを更新し続けて来ました。考えてみれば、そうしなければならない理由はどこにもありません。大晦日の夕刻、わたしは、正月はブログをお休みし、2022年は「ねばならぬ思考」を廃して、無理をするのをやめようと考えました。

それが、元日、昼寝から目覚めたら、年賀状をもらいながら、出していなかった人への賀状書きを始め、その後、依頼されている、お世話になったお上人の著作の編集作業に取り掛かり、今、21時30分ですが、正月は休もうと思っていたブログの記事を作成しています。

どれも強い意志を持って始めたわけではありません。どうやら、「しなければならない」と思うことをやめたことによって、「めんどくさい」と言う気持ちが消えたようです。

「ねばならぬ思考」を持っていると、「これをやった後には、あれをやり、もしそれができなかった時の対策としては・・・」と、次から次へと思考が涌いてきて、プレッシャーを感じるようになり、次第にめんどうくさくなってきます。

「できなくても、まっ、いいか」くらいに思った方が、諸事は、めんどうくさくならないようです。

「こうあらねば」という自己像を描いたり、「この苦しみから脱却せねば」と思っていると、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)の修行は進みません。仏道修行においても「ねばならぬ思考」は不要のようです。唱題は、唱えている今に全集中することで、深まっていきます。

「囚われからの解放」は、仏教の大きなテーマですが、「ねばならぬ思考」は、囚われそのものと言ってよさそうです。

さて、このブログを継続していくにあたっても、毎日の更新にこだわらない方が、息切れがしないのではと思っています。また、一つの記事を読者に味読していただくために、次の記事まで、間を置いた方が好ましいのかもしれない、という思いもあります。

「書かなければいけない」と、「意志の力」や「やる気」で記事を書くのではなく、「涌きあがってくる思い」があるときに、その思いを文章にしていきたいと思っています。

記事にコメントをくださった方、メールをくださった方、その他、このブログの応援をしてくださっているすべての方々に、こころから感謝申し上げます。みなさまの思いが大きな刺激となり、力になります。

さて、これから近所のポストまで、寒気を楽しみながら賀状を投函しに行ってきます。

読者のみなさま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。