体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

神への祈りと仏への祈りは、本当は違います

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先日、池上本門寺の大堂で柏手を打って参拝している若者を見かけました。神社とお寺の違いがよく分かっていない人がいるようです。ですが、この区別は、実際難しいことがあります。。

「鳥居があるのが神社で、ないのがお寺」と言う人がいますが、一概にそうとは言い切れません。

本門寺の境内にある長栄堂には鳥居が立っていますが、ここでは、毎日法華経が読誦されています。長栄堂には長栄大威徳天が祀られていますが、この神さまは仏教系の稲荷神で、本門寺の守護神として安置されています。神ではありますが、仏教系ですので、このお堂の前でも柏手は打ちちません。

古来わが国では神道と仏教は分かち難く結び付いてきました。その区別がが明確になったのは、明治政府が国家神道という宗教を強引に作り、「神仏分離」、「廃仏毀釈」という政策をとって以降のことです。

中学校の国語の授業で「徒然草」の、仁和寺の僧侶が石清水八幡宮への参拝を思い立ったという内容の段を学んだときのことです。わたしは、新米の女性の先生にこんな質問をしたことがありました。

「仏教の僧侶が神社に参拝するというのは、おかしいのではありませんか」

先生は「それもそうね・・・」と言っただけで、明確な答えをもらえなかったことを覚えています。

日本の神々は、現世の繁栄に深く関わっています。京都の松尾大社は、酒造業者に深く崇敬されており、毎年新年、全国から酒造会社の代表が、「無事故で、よいお酒が醸造でますように」と参拝に来ます。

言うまでもなく稲荷信は商売繁盛の神として崇められ、デパートの屋上には稲荷神が祀られています。

ですが、仏教の最高位にある如来(『法華経』で言えば、久遠実成の本仏・釈迦如来)は、現世の物質的な幸せを超えて、人々が仏に成ることを願っています。如来は、わたしたちが事業繁栄や学業成就を願う対象ではありません。そこが神と決定的に異なるところです。多くの人は、如来像の前で現世の利益を祈っていますが。

仏教寺院に祀られている仏法守護の神々である、弁財天、大黒天といった神々については、まだ仏の世界に至っていない存在で、この世の利益を願ってもよいのですが、本来、仏は現世利益を祈る対象ではないのです。

日本に仏教が伝来した時点で、仏は異国の強力なパワーをもった神であると認識され、国を護ってくれる存在として崇められました。これは釈尊の教えからすれば、大いなる勘違いといってもよいことであったのです。

平安時代までは、仏教には鎮護国家の教えと言う色彩が強くありましたが、鎌倉期の道元親鸞日蓮といった祖師方によって、仏教は、釈迦本来の、人が仏であることに目覚めていく教えとして広まっていきました。とはいっても庶民の仏教信仰の中心は現世利益信仰にありましたが。これは現在でも変わりありません。

わたしは、あくまで人生の目的は仏としての自己に目覚めていくことであると考えていますので、経済的な繁栄や家内安全などを神に祈ることはいたしません。この世の幸福も大切ですが、それは無常なるものです。仏道を歩むというのは、永遠に失われることのない幸福を得ることであると思っています。

ですが神々の前で法楽を目的として読経をすることはあります。法楽とは、神仏を楽しませることを言います。真理の説かれている御経を聴くことは、神々にとって大きな喜びとなり、向上の糧となるのです。仏教から言えば、神々はまだ修行中の身なのです。

ある僧侶が聖天さまに法楽の御経を上げていたら、「御経はもういいから、甘いものをおくれ」という声が聞こえてきたという話があります。聖天さまは甘いものが好物なのです。もちろん読経も聖天さまは喜んでお受け取りになったでしょが。

神々に現世的な祈りをすることを、わたしは否定しません。ですが、この世の幸せを超えて、自己が仏であると言う真実に目覚める道を歩むことを、僧侶として周囲の方々にお勧めしています。