体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

仏教についての大いなる勘違い

f:id:kasinoki1957:20220108193301j:plain

仏教寺院で、人々は経済的に豊かになることを願って手を合わせています。「自分さえよければよい」という思いでなければ、物質的に豊かであることは肯定されてよいでしょう。

ですが、仏教の開祖、釈尊が、この世の豊かさを捨てることから修行をスタートさせたことを知った上て、寺院で手を合わせる人は少ないようです。

釈尊は、一国の王子として生まれ、頭脳明晰、眉目秀麗、身体健全にして豊かな財力と地位、そして妻子に恵まれていました。若者の時期に、すでに現世において私たちが希求するあらゆるものを持っていました。

釈尊は冬、夏、雨期を快適に過ごせるように、季節に合わせた三つの宮殿を所有していたとも言われています。

釈尊は、自分の持っていた、これらすべての豊かさを捨て、さらには王子という地位や妻子までも捨てて、修行の旅に出たのです。

家族を大切にし、ささやかでもマイホームを持ちたいと、額に汗して働いている人にとって、妻子を置き去りにし、三つの宮殿を捨てるという釈尊の行為は、狂気の沙汰といってもよいものでしょう。

教員時代、防災教育の担当教員として東日本大震災のあとの石巻に赴きました。そこでわたしは、新築して間もないと思われる家屋が、柱のみを残して流されている状況を目の当たりにしました。釈尊の求めていたものは、このような無常な物質世界を超えた絶対的な平安であったのです。

商売繁盛、家内安全を寺院で祈願する人が釈尊の出家の動機を知ったら、どう思うでしょうか。「お寺で、物質的な豊かさを求めるというのは、筋違いなのかな」と思う人もいるかもしれません。ですが、わたしは、現世的な利益を求めることを否定いたしません。

釈尊は、壮絶な難行苦行を重ねましたが、それで絶対的な平安を得ることはできませんでした。釈尊は、極端に走ることなく、何事にも偏らない生き方を選びました。そして絶対的な平安に至ったのです。釈尊は弟子に苦行や貧しい生活を勧めてはいません。付言しますと、釈尊の成道の後、釈尊の妻と子は釈尊の弟子となっています。

釈尊の教えは次のように要約できます。

無常であるこの世は苦に満ちている。だが絶望することはない。苦から解放される道がある。それは、あらゆる両極端を避け、中道を行くことである。

この世において、物質的に満たされるるだけでは、ほんとうに深く癒された生き方をすることはできません。かと言って、貧に徹して苦行すれば救われるというわけでもありません。

わたしたちは、肉体を脱ぎ去った後もたましいの旅を続けていきます。前世、現世、来世のすべてをトータルに見渡し、「貧と富」をはじめとする、あらゆる二項対立、両極端から離れて中道を行くのが、仏の道を歩むということであると思います。

そのための具体的な実践行法として、わたしは日々、唱題(南無妙法蓮華経を唱える修行)をしています。唱題をしていると、心の中の明鏡に主観を離れた真実が写し出されてきます。そして、それを基にしてバランスの取れた状態で、平安の中にあって、諸々のことがらを判断していけるようになります(いずれこのことについては、詳しくお伝えしたいと思います)。

寺院に参拝する人のほとんどは、現世における願いを叶えてくださるのが仏さまであると思っているようです。これは大いなる勘違いです。

み仏は、物質的な豊かさを否定なさりませんが、それを超えた、絶対的なたましいの安らぎへと、常にわたしたちを導かれているのです。