今、三十歳を越えているリョウタ(仮名)は、わたしの教え子で、数学が大の苦手でした。彼が数学の定期考査で赤点を取るのはいつものこと。リョウタは補講を受けて何とか二年生に進級しました。
二年生になったばかりのある日、リョウタが真面目な顔で、わたしに相談があると言います。どちらかと言えばヤンチャなリョウタのそんな顔は初めてみました。彼は「高校を辞めたいんだ」と言いました。
こんな時、ふつう教員はこう言うでしょう。
「今の社会で、中卒で生きていくのは厳しいぞ。辛くても、がんばって高校は卒業しておいた方がいい」
勤務している高校の副校長は、生徒たちにこう言っていました。
「我々は、君たち全員が卒業することを強く願っている。常に全力で授業に臨んでほしい」
ですが、わたしは「卒業まで全力でがんばれ」とリョウタに言いませんでした。副校長の言う「我々」の中にわたしは入っていませんでした。
わたしはリョウタの担任ではありませんでした。彼は、わたしなら「学校を続けろ」と説教はしないだろうと思ったようです。
「そうか・・・。で、辞めたあとのことは考えているのか」とわたしが訊くと、彼は真剣な顔で「大工になりたいんだ」と言います。彼の決意が固いことを確認したあと、わたしは言いました。
「わかった。必要があれば、わたしが他の先生方やオマエの親を説得してやる。オマエは全力で弟子入りさせてもらえる大工の親方を探せ」
少々時間はかかりましたが、リョウタは高校を自主退学し、無事大工になることができました。この仕事は、彼の性に合っていました。リョウタは修行に励み、今は小さいな工務店の社長になっています。
リョウタは「先生の家が老朽化したら、新しい家は俺が建てる」と言ってくれています。赤点をつけられた数学の先生については「多摩川の河原に段ボールの家を建ててやる」と悪態をついていました(数学の先生は厳しくはありましたが、生真面目でよい先生だったのですが)。
木彫りの名人は、木を手にすると「このように彫ってくれ」という木の声が聴こえてくるという話を聞いたことがあります。あらかじめ、このように彫ろうというビジョンを持っているわけではないということです。
わたしは、非教育的な教員でしたが、生徒の「自分は、このように伸びていきたい」という内面の声が聴こえてくることがありました。リョウタについては「この子は高校を辞めて大工になることで大きく伸びていくだろう」と直感しました。
ベストセラーとなった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は『ホモ・デウス』でこう書いています。
「宗教とは社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段である」
教育も倫理・道徳も、ハラリ氏の言う宗教と同様なものなのではないでしょうか。江戸時代の儒教教育はまさにそのようなものでした(この時代、仏教は骨抜きにされていました。このことについては、また別に記します)。戦時下の国家神道と結びついた教育も同様です。
宗教も教育も倫理・道徳も、木彫りに譬(たと)えれば、熊を彫ろうとか鹿を彫ろうとかあらかじめ決めて、その完成を目指して進んでいくものです。
いっぽう仏道は、永遠のブッダに向かっていくという方向性はありますが、山にの頂上に至るのに様々な登山道があるのと同じように、人によって歩み方はさまざまです。道中で見る光景も修行者によって異なります。そして、どのような光景に出会うのか、予測不可能であるのです。
仏教を含む宗教(カルト教団は別として)も教育も、国家に有為な人材を育成することと、深く関わっています。ですが仏道は、人を一つの枠に入れることとは関係せずに、永遠のブッダに向かって進んでいく道です。それは体験によってのみ深まるものであり、他者が知的に教えることができるものではありません。
仏教も教育も政治体制が変われば、その在り方が変わりますが、仏道はいつの時代も不変です。
わたしは教員時代、「人はこうあるべきだ」と教える「教育」は、少々過激な言い方をすれば「洗脳」ではないかと思って、生徒と向き合ってきました。それゆえ生徒に「このような生き方をしなさい」と言うことはなく「どのように生きたいのか」という問いかけを常にしてきました。
わたしは僧侶となりましたが、仏教という宗教を信仰しているという意識はなく、仏道を歩んでいるという思いでいます。これは「生徒を一定の枠の中には入れたくない」と思っていた教員時代の延長線上にある思いです。
教員時代を顧みて、学校教育の限界を感じています。学校教育の現場を離れた今、仏道を歩む者として、周囲の子どもたちの内なる声を聴き、子どもたちと触れ合い、子どもたちをサポートしていきたいと考えています。