体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

龍神さんだったのかもしれない その1

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昨日は、世界各地の日蓮宗僧侶がお題目の祈りをインターネット上でつなぐ「24時間お題目リレー」の日でした。わたしは、斉藤大法上人との対談、唱題(南無妙法蓮華経を唱える修行)をさせていただきました。この時に起こったことを記します。

ふつう唱題時のの声の大きさや音程大きくが変化することはありません。ですが、一昨年の12月に斉藤大法師のもとで唱題を始めてから、わたしの唱題に変化が生じるようになりました。これは霊媒とか霊能力とは無関係であるということは、以前の記事でお伝えしたとおりです。

大法上人とご本尊に向かって、世界平和とコロナの収束を祈って唱題していると、わたしの唱題する声は、歌うような声に変化ました。そのあとに対座(二人が向き合って、合掌正座して行う唱題)して行った唱題でも同様のことが起こりました。

この変化を、わたしは決して待ち望んでいるわけではありません。また、変化を拒みながらも変化してしまうというわけでもありません。お題目(南無妙法蓮華経)を全霊で唱えていると、おのずと腹からお題目が涌きあがってくるような感じで、唱題が変化するのです。

唱題する際、一切、意図的な操作はしません。「南無妙法蓮華経」と一つになるべく、全集中のお題目を唱えます。計らいを超えた唱題です。昨日の唱題について、大法師はフェイスブックで次のように紹介してくださいました。

天は音楽も無縫。楽譜がなくても発せられるままに美しい音楽となっている。虚空のように壮大なスケールなんだ。制約も際限もない。作為を超えている。美しさにおいても壮大。だから真に癒され、喜びも絶大。
唱題で体験される世界のひとつ(今晩の唱題で起こった事柄の一部を描写しました)。
経典『わが此の土は、安穏にして天人常に充満せり・・・諸天は天の鼓を撃ちて、常にもろもろの伎楽をなし云々』が、実現している世界なのだ。
本年1月12日、身延山の松樹庵で読経、唱題させていただいた折、龍神さんと深く響き合った感覚がありました。龍神さんは天部(天の世界)に住む神です。昨日のわたしの唱題は、龍神さんの思いを受けていたのかもしれません。
「美にして強大。天衣無縫。繊細にして激しい」そのような感じを、わたしは龍神さんに抱いています。わたしには、霊感とか霊能力といわれるものはありません。それゆえ昨日の唱題時に体験したのが龍神さんの世界であったのかどうか、明確にはわかりません。ですが天部の世界と響き合ったという感覚は紛れもなくあり、それは、リアリティーのあるものでした。
わたしの唱題は、いつも大きく変化するわけではありません。霊媒に霊が降りてきた場合とは違います。大法師の指導の下で行っている唱題は、理性を超えてコントロールできなくなってしまうものではないのです。昨年末、霊園で営んだ法要の際のお題目は、坦々として、深さを感じるものでした。そこには、「この法要時には、唱えるお題目が変化することは好ましくない」という、わたしの理性がはたらいていたと言ってよいと思います。
自我の壁が厚いと唱題時の変化は起こりません。唱題についての理想を思い描くことなく、人目に自分の唱題がどのように映るのかを気にすることもなく、ただひたすら「南無妙法蓮華経」と一つになっていくとき、自己の心中にさまざまな世界が映じ、その世界が唱題に現れ出るのです。
ですが、「南無妙法蓮華経」にすべて委ねてしまえばそれでよいというものでもありません。今、自分の心の中の世界に映し出されている世界を観心(観察)することが必要であるのです。このことについては、次回に記したいと思います。
*大法師のフェイスブックの記事をコピーペーストしましたら、後半の背景がクリーム色から白に変わってしまいました。ご了承ください。