体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

たましいの私塾 その2

f:id:kasinoki1957:20220121171000j:plain

無差別に人々にに危害を加えて、自身も死を望むような事件が相次いでいます。他者との比較の中で、自分は価値のない存在だと考え、絶望する人が増えていることが大きな要因である気がします。

かつて、高校一年生のある教え子は、わたしにこう言いました。

「僕、人生で大きな失敗を三回もしているんです」

その「大きな失敗」の内容を訊くと、彼はこう答えました。

「小、中、高と三回受験して、三回とも第一志望校に落ちたんです」

受験競争に勝ち抜くことに至上の価値があり、そこで失敗した者は人生の敗者である。そう彼は考えていました。

日本の社会の中で価値あることは、絶対的なものではありません。アフリカのある地域では足が速いことに価値が置かれています。偏差値の高い日本の若者がその地域にいって、「僕は勉強ができる」といっても意味はありません。足が遅ければ、その地域では優れた人とはみなされません。その社会の中での価値というのは、相対的なものにすぎないのです。その認識を、多くの若者も大人も持てずにいます。

受験競争で傷ついた生徒を、わたしは「生き方は、一つじゃない」と励ましたことがあります。ですが、そのころ学年主任を務めていたわたしは、校長から、担当する学年の、いわゆる有名大学への進学率アップを求められていました。これは、保護者や卒業生も求めているものでした。

その時代、その社会の中における価値のある人間を育成するのが教員の役目であるというのが現実です。戦時中は「お国のために命を投げ打って戦いなさい」と言って教え子を戦場に送るのが教師の役目でした。

勉強ができようができまいが、素行が善かろうが悪かろうが、だれもがみな仏性(仏としての本質・仏になる可能性)を持っているというのが法華経の教えです。仏性というのは、万人が有する絶対的な価値といってよいものです。

法華経者のわたしにとっては、その時代や社会における価値というのは、少々乱暴な言い方をすれば、どうでもよいものでした。

学校教育の現場を離れた今、周囲の若者たちに「君にも間違いなく仏性があるのだ!」と伝えていきたいと思います。そして「どんな道でもいい。君のいのちが輝く道を歩め。一切他者と比較する必要はない。君だけの道を歩め」と励ましていきたいと考えています。それが私塾を開いた目的です。

さらに言えば、「死は終わりではない。そこからまた新たな、たましいの旅が始まるのだ」ということを伝えるのも私塾の目的です。このことについては別の記事で記したいと思います。