体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

宗教と依存

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昔のことですが、浄土真宗の御門主が地方を教化に巡った際、御門主が入った後の風呂の湯を、村人が有り難く頂戴して飲んだという話があります。

これは現代の話ですが、ある仏教系新宗教教団の本部のトイレには、教祖様専用の金ピカのスリッパが置かれてあるそうです。

偉い宗教者への崇拝は、いつの時代も変わりありません。そこには、人々の権威ある宗教者への救済願望があるのでしょう。

釈尊が入滅された時、弟子たちは、深く嘆き悲しみました。そこには、「残された私たちは、いったいこれから誰を頼って生きたらよいのだろう」という不安がありました。

弟子や信徒たちにはそのような思いに対して、釈尊は、周囲の人々を自分に依存させようとは決してなさいませんでした。その姿は、現代のカリスマ教祖のイメージとは対極にあるものでした。

「自らを燈明とし、自らを頼りとして、他人を拠り所とせず、法(悟りへと至る真理)を燈明とし、法を頼りとして、他を拠り所とせずに修行しなさい」

それが釈尊の教えです。釈尊は、自身への盲目的な崇拝は修行の妨げになり、ひいては悟りを妨げると考えていました。

にもかかわらず、日本仏教では、宗祖信仰というものがが起こりました。例えば、宗祖を真言宗では御大師様、日蓮宗ではお祖師様と呼んで厚く敬っています。日本のお寺では、本堂よりも宗祖も祀る祖師堂の方が大きかったりすることもあります。

敬うだけではなく、人々は、宗祖にむかって、家内安全や商売繁盛などを祈っています。

日本仏教は、独自の展開を遂げ、大きく変容しましたが、わたしは、釈尊の教説に立ち返って、仏道を歩んでいきたいと考えています。

わたしが斉藤大法上人の指導の下(もと)で唱えている南無妙法蓮華経は、法を拠り所として唱える南無妙法蓮華経です。