体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

祈りの秘訣

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わたしは、周囲の方が、僧侶としてのわたしに依存しないように気を付けています。また、神仏にも依存しないようにと伝えています。

と言っても、真に辛いとき、苦しいとには、誰にでも神仏に助けを求めたいと思うことはあるでしょう。わたしは、それを「心が弱い」と言って否定することはしません。

苦しみから解放されるように、あるいはよきことが起こるように神仏に祈ってもよいと思っています。わたしは、実際に祈願の依頼をお受けすることもあります。

今、中学三年生の男の子、ショウゴ(仮名)の受験指導をしていますが、ショウゴのことを、わたしは毎日、自坊(我が家)の御宝前(神仏をお祀りしている場所)で祈っています。ですが「○○高校に合格しますように」という祈りはいたしません。人の知恵では、本当に○○高校に合格するのが相応しいのかは分からないからです。

ある僧侶が受験生の親から、子どもが第一志の高校へ合格するよう祈願してほしいと依頼されました。僧侶はその高校に入れるよう真剣に祈願しました。その結果、難関校で合格は難しいだろうと言われていた学校に、子どもは無事合格しました。

親子共々大変に喜び、僧侶は感謝されました。ところが、その子は二年生に進級する前にその学校を辞めることとなりました。授業が難しすぎて、その子の学力ではついていけなかったのです。

こういったことは往々にして起こります。病気が癒えることを祈るのはよいだろうと思われるかもしれませんが、人は病気から気づきを得て学ぶこともあります。祈って病気が治癒したことで、学びの機会を奪ってしまうということもあるのです。

ある企業の創業者は、「あの大病を経験しなければ、今のわたしの成功はなかったでしょう」と語っていました。病気が人生の学びや転機となるのは、よくあることです。

神仏に祈らず、自己の強力な念で、願望を成就させる人もいます。「人の一念、岩をも通す」という諺(ことわ)ざのとおり、念にはパワーがあります。ですが、これで人生を誤ることもあります。

ある女性は、交際している男性と結婚したいと願っていましたが、男性は結婚に乗り気ではありませんでした。そこで女性は、男性に洗濯物を洗い、畳ませてほしいと頼み込み、彼の下着にアイロンを掛けながら「私はこの人と絶対に結ばれる」と強い念を発しました。その結果、彼女の願いは叶ったのですが・・・。数年後、性格の不一致で離婚することとなりました。

自我は、自分にとってどの選択が相応しいのかを見抜く智慧を持っていません。それゆえ、具体的に「○○の成就」を強く思い描く、念や祈りには、危険が潜んでいるのです。

わたしの祈りの柱は唱題(「南無妙法蓮華経」を唱えること)です。唱題の前にご本尊に依頼者の願意(願いの内容)は伝えますが、それが叶いますようにとは祈願しません。ただ「依頼者とその周囲の人の、いのちが輝きますよう、お導きください」とのみ祈ります。唱題中は、全身全霊でお唱えする「南無妙法蓮華経」と一つになるよう集中します。そこに差し挟まれる思いや願いは一切ありません。

その結果、受験であれば、合格することも、しないこともありますが、あとになって振り返ってみると、わたしの経験からすると、祈願の依頼者は「この道でよかった」と思える道を歩むことができています。

「お導きください」 それが最良の願意です。わたしは、祈願を依頼する人に、この願いをもって自らも祈ることを勧めています。自分のことを祈る場合には「お導きください。よい人になります」と祈るのもよいでしょう。

依頼者自身も「南無妙法蓮華経」を唱えるとよいのですが、それは強制しません。

「祈り」は地中に深く埋められた種です。種を埋めたら、「まだ芽が出ない」と土をほじくり返してはいけません。芽が出たら、「はやく伸びるように」と芽を引っ張ってもいけません。そのようなことをしたら枯れてしまいます。

お題目(南無妙法蓮華経)は、大地に降り注ぐ雨であり、陽の光であり、養分です。お題目を一心に唱えていると、種は自ずと発芽し、やがて成長して花開します。その花がどのような花か、咲いてみないとわかりません。ですが、それは紛れもなく自分だけの美しい花であるのです。花は、自己の計らいを超えて開きます。

先日は受験生のショウタと一対一で向き合って、『観音経』を唱えてから全集中の南無妙法蓮華経を唱えました。ショウタも合掌して、わたしの唱える南無妙法蓮華経と一つになっていました。

いずれショウタの祈りの種は、芽を出し、彼だけの美しい花を咲かせることでしょう。