体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

頑張ってはいけない

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一生懸命に頑張ってはいけない。これは、唱題(「南無妙法蓮華経」を唱える修行)をする自らへの戒めです。

かつて高校の教員であった時、生徒に「頑張ってはいけない。努力してはいけない」と言ったことは一度もありません。わたしは、教え子にいつもこう言ってきました。

「大人になると、どんなに努力しても仕事がうまくいかないことがある。信頼していた仲間、あるいは上司や部下から裏切られることもある。だけれど勉強についての努力は、君を裏切ることはない。やればやっただけ必ず力がつく。頑張れ!」

受験競争の弊害は、重々承知していますが、受験勉強に一生懸命に頑張って取り組む時期があってもよいのではないかと思っています。

唱題をするにあたって、斉藤大法上人から、全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えるように指導されました。最近、唱題の指導をさせていただくようになって、しみじみと感じることがあります。それは全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えることと、一生懸命に頑張って南無妙法蓮華経を唱えることは、まったく違うということです。

両者とも唱える姿は真剣そのものです。では、その違いは、いったいどこにあるのでしょうか。ひとことで言えば「そこに平安があるかないか」それがその違いです。

第一志望の学校に受かった自分を思い描き、絶対合格!と書いた紙を壁に貼って努力している受験生はどこにでもいます。わたしは今、頼まれて中学三年の男の子、ショウゴ(仮名)の受験指導をしていますが、彼の机の前に志望校の校長の写真が貼ってあってびっくりしました。

受験生は内心に不安を抱きながらも、自己を鼓舞し、合格を目指して、努力して頑張っています。ショウゴの母親も、辛い時期を息子と共に乗り越えようと頑張っているようです。

頑張って努力しなければ志望校に合格することはできません。いっぽう唱題は、頑張って努力しても先に進みません。それは勉強と違って自我の計らいでするものではないからです。むしろ自我の働きは妨げになります。

受験の場合は志望校に通う理想の自分の姿を明確に思い描けますが、唱題の場合は、理想の唱題をしている自分の姿を思い描くことはできません。それは、仏の道は自己の想像をはるかに超えたものだからです。「このレベルを目指したい」と理想を持って唱えるのは「頑張っている唱題」です。先に進めません。

南無妙法蓮華経に自分を預け入れ、南無妙法蓮華経と一つになっていく。それが全身全霊で唱える南無妙法蓮華経です。そこに自我の頑張りは介在しません。そこにあるのは、すべてを南無妙法蓮華経に委ね切った安らぎと静けさです。それゆえ全身全霊で南無妙法蓮華経を唱える人の心は平安で満たされているのです。この全身全霊の唱題をしていると、南無妙法蓮華経は、自ずと涌き起ってきます。

この唱題は、聴いている人の心をも平安に導きます。受験生が頑張って勉強している姿を見て心に平安を得る人はいないでしょうが、全身全霊の唱題は、他者の心も癒すのです。

全身全霊で唱題をしていると、苦しんでいる他者のたましいの姿が心中の鏡に映じてくることがあります。このとき、唱題の声がしわがれた声になったりすることがありますが、このときも、心は平安に満たされています。

また、身の内から御仏(みほとけ)のいのちが涌きあがって大音声(だいおんじょう)の唱題となることもありますが、このとき、いのちの躍動感はあっても、興奮はありません。そこにも静けさと平安が存在しています。

唱題は受験と違って到達点はなく、どこまでも深まっていくものです。わたしの唱題時の心境は、まだ日常の生活の中に十分に反映されていません。わたしの唱題は未熟です。そして死ぬときも自己の未熟さを感じてあの世へと赴くことでしょう。唱題には到達点がない。わたしは、そこに限りない魅力を感じています。

今わたしが死ぬと周囲に困る者がいるので、そういった意味では、もし医師から「余命数か月です」と宣告されたら「まだ生きたい」と思うでしょう。ですが法華の行者としては、死を恐れる思いは、まったくありません。妙法(妙法蓮華経)五字の光明に照らされて生き、妙法五字の光明に照らされて死ぬ。ただそれだけです。

この道に出会えたことは、わたしにとって、かけがえのない喜びです。そして今、この喜びを多くの方たちと分かち合っていきたいと思っています。