体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

南無妙法蓮華経を唱える その2

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お釈迦さまの修行の内容とその結果得られた大いなる悟り。それを、ただ南無妙法蓮華経を全身全霊で唱え続けるなら、お釈迦様は、自然とお譲りになられる。

日蓮聖人はそう明言されています。参考までにその原文を掲載しておきます。

釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼(か)の因果の功徳を譲り与へたまふ。(『観心本尊鈔(かんじんほんぞんしょう)』)

これが真実なら凄いことだ。そう思いました。

私は昔、密教の修行をしていたことがあります。そこでは、たくさんの印(両手の指をさまざまに組んで仏の教えや姿をを象徴的に表現すること)を組んで真言(真理を表すサンスクリット語の言葉)を唱え、心の中に仏を観じるといった修行をしました。密教の行は非常に精緻に組み立てられており、そう簡単に修得することはできません。実際、わたしは修得できませんでした。

それが、僧侶も一般の人々も、ただ南無妙法蓮華経を唱えるだけでお釈迦さまの大いなる智慧と慈悲が譲り与えられるというのは、大変に魅力的なことでした。

そこで、わたしは十数年前、喜びの心を持ってお題目(南無妙法蓮華経)を唱え始めました。ところがなのです。お題目を唱え続けていても、お釈迦さまの修行の内容とその結果としての悟り(「大いなる智慧と慈悲」)をお釈迦さまから譲り与えられたという実感が涌いてこないのです。

これはどうしたことなのだろう。そう思っていました。

お釈迦さまの悟りが譲り与えられるという実感がなくても、それなりに南無妙法蓮華経を唱えて、心の落ち着きを得ることはできていました。特に生活上困ることはありません。僧侶となって葬儀法要を修する上でも表面上、困ることはありません。ですが、わたしのテーマは、癒されて、御仏のいのちに目覚めていくことでした。これでは、テーマに沿って生きていくことはできません。困った状況にありました。

そのような状況の下、斉藤大法上人の唱題と出会って、わたしは一筋の光明を得ました。この唱題を行じて行けば、自ずと釈尊智慧と慈悲は譲り与えられていくのではないか。そう直感したのです。

とにかく全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えること。そう大法師は指導されました。これは、唱題の修行中、わたしがすでに実践してきたことでした。ところが大法師の言われる全身全霊は、今までのわたしの全身全霊とは異なるものであったのです。大きな声で集中して真剣に唱える。そういった意味では違いはありません。ですがその内実はまったく異なるものであったのでした。私の唱題は大法師の唱題に触れて大きく変化しました。

それは、唱題時の意識の変化であり、大法師の言葉を借りれば「自我-発電的唱題から宇宙-発電的唱題へ」のコペルニクス的転換でした。

と記しただけでは、「何となくわかる」という方もあるかもしれませんが、「一体何のことやら」と思うのは当然のこと。このことについて、次回は具体的にお伝えいたします。