体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

南無妙法蓮華経それ自体の中に入り込む

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斉藤大法上人の指導の下で変化したわたしの唱題。それは大法師の言葉を借りれば、自我-発電的唱題から宇宙-発電的唱題へのコペルニクス的転換であったと前回記しました。

これはどういうことなのか。わたしなりに表現すれば、わたしの意志で唱えていた唱題が「わが唱題は我が唱題にあらず。妙法の唱える唱題なり」という唱題に少しずつ変化しているという感じです。わたしの唱題は、腹の底から自然と涌きあがってくる唱題となってきたのです。

先日、若手僧侶が唱題行脚している姿をインターネットで視聴しましたが、それは外に向かって声を張り上げている南無妙法蓮華経でした。大法上人に出会う前、わたしはこれと同じような南無妙法蓮華経を唱えていました。

私は、大法師から以下のように指導を受けました。

「外に向かうのではなく、南無妙法蓮華経それ自体の中に入り込んでいく。それも考えずに、ただ唱え唱えていった結果としてひとつになる。ここからでないと始まらない」

ただ唱え唱えていく。そこに自我は混入しません。

「妙法への信が深まることにより、自我は砕かれ、南無妙法蓮華経それ自体の中に入り込むことができる」そのように、わたしは感じました。

「南無」とは、いのちを預けることです。真にいのちを預けるのに必要なのは絶対的な信です。そして、いのち預ける対象は白蓮華に譬えられる「妙法」です。では「妙法」とはどのようなものなのでしょう。

妙法は、お釈迦さまの尊像として表現されることもありますが、一神教の人格神とは異なります。「大いなる智慧と慈悲。万物を万物たらしめ、万物を育む真理、いのちの本源」あえて妙法を表現すれば、そのようになるでしょうか。それは言語では到底表現しきれなものです。

妙法蓮華経は単なる経典の題名ではなく、みほとけの慈悲と智慧そのものであり、妙法蓮華経に南無し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、その大いなる慈悲と智慧は自ずと譲与される。そう日蓮聖人は言われました。

かつてわたしが唱題しても釈尊の大いなる智慧と慈悲を譲与される実感がなかった理由(わけ)。それは自我による唱題、自家-発電的唱題であったからでした。そこには、南無と唱えながら、妙法への信が希薄でした。それが妙法に自らを全託するこころ、妙法への信が深まることで、唱題は内に向かい、自我を超えた宇宙-発電的な唱題、すなわち妙法の慈悲によって唱えせしめられている唱題になってきたようです。

 わたしの唱題は始まったばかりです。先日、Zoomでの24時間お題目リレーで、一人で唱えた唱題では、如実にまだ自我が混入しているのを実感しました。その後、大法師が一緒に唱えてくださり、少し唱題は深まったようですが、未熟であることには変わりありません。唱題はどこまでも深まっていきます。

真に宇宙-発電的唱題は「無願の唱題」であると大法師は言われます。多くの人は、家内安全や病気の平癒など、何かを願いながら唱題をしています。ですが、お釈迦さまの大いなる慈悲と智慧が譲与される唱題は、そのような唱題ではなく「無願の唱題」であると大法師から指導されました。

わたしはZoomで唱題しているとき、「この唱題を多くの人に伝えたい、見ていただきたい」という願いを持っていました。無願ではありませんでした。

「無願の唱題」については次回、詳しくお伝えします。