体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

無願の唱題

 

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この世の苦しみは、貧・病・争、すなわち、貧しさ・病気(怪我も含める)・人との争い(対人関係)の三つの範囲に収まると言われます。戦後、多くのお題目系の新宗教は、「南無妙法蓮華経と唱えれば、貧・病・争から解放されて救われる」と説き、急激な発展を遂げてきました。

日蓮宗という伝統仏教の中でも、お題目によってこの三つの苦しみから解放されるための祈りがなされてきました。

斉藤大法上人はFacebookに次のように記されていまます。

私は、祈って幾多の奇跡を体験してきました。ありとあらゆるテーマを祈りました。訪れる方は、それだけ苦しい思いをされている。自分たちでは、どうすることも出来ない。そんな時に最後の神頼み、ということがある。祈るなら本気で一心に祈ったら良い。ただし、祈る言葉、南無妙法蓮華経なら「妙法蓮華経に南無する」わけだから、その言葉の指し示すように唱えるべきだと思う。それを口では、「なむみょうほうれんげきょう」と唱えつつ心では、「ああしてください。これもお願いします」と思いながら唱えているから違う、という。たとえ思いや願いがあったとしてもそれらを忘れてしまうくらい、ただ一心に唱える。妙法蓮華経が、万徳を具えているならば、唱えがその妙法蓮華経のこころに適う時祈りも叶うでしょう。そうしながら、妙法蓮華経に南無することを深く体得するなら遠からずしてその人は、眼前の小さな利益にとどまらず、成仏という偉大なる利益を得ることでしょう。かつただただ一心に南無と唱える無願の祈り、修行の道に至る。これを知らずして、自我の祈りに固定する宗教者こそ問題の最たるものだと思います。今日仏教というと自我や願望を満たすための呪術のひとつと思われているのは、それらから解放された大果に至る道があらわされていないからです。そんなことでは、たとえ素晴らしい仏教の言葉を用いても社会発展(成長・成熟)しないどころか衰微してしまう。

戦後の日本の経済復興は、人々の「物質的に豊かでありますように」という自我の祈りによってなされてきたと言ってもよいでしょう。ですがこの祈りが実現したことによって、環境破壊などさまざまな問題が生じているのも紛れもない事実です

自我を充足させる祈りは間違いなく歪(ひず)みを生みます。ですが、苦しみの底にあるとき、祈りたくなる気持ちになるのはよく分かります。

宗教者はその気持ちを受け止め、妙法にすべてを預け入れて南無する無願の祈りをし、苦しんでいる人にもその祈りを勧めるべきであるところを、それをなしてきませんでした。そのことを、わたしは大法師の言葉によって気づかされました。

今日は都立高校の受験日でした。縁のある中学三年生も受験に臨みました。わたしは本人の「上がったり体調を崩したりせずに持てる力を本番で発揮したい」との思いを受け止め、唱題しました。唱題中は願いは一切忘れ、無願の唱題に徹しました。

先程、唱題を終えて軽やかさを感じました。まだ本人に確認していませんが、力を十分発揮できたのではないかと思います。

無願の唱題ができることは、本当に幸せなことです。子どもたちにもこのような祈りを伝えていくつもりです。