体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

祈りは届く

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昔の話ですが、妻と居間で口論して、「もう君とは一生、口を利きたくない」と腹を立て、ふすま一枚隔てた隣室に引き籠ったことがあります。しかし、しばらくすると反省モードになり、「言い過ぎた。悪かったな」と、かなり深く悔いました。そして心の中で妻に謝りました。その後、ふすまを開けると、妻は私を見て言いました。

「ふすまの向こうであなたが思っていたことは分かっているわ。許してあげる」

直に言葉に出さなくとも、思いは通じるのだな、と実感しました。

妻は人の思いをキャッチすることが上手なようです。電車の中で何となく振り返ると、一人の紳士が、妻が床に落としたハンカチを拾い上げ、妻に渡そうとしていたことがあったそうです。紳士が「ハンカチが落ちましたよ」と妻に声を掛ける直前に、彼女は紳士の思いをキャッチしたのでした。

特に妻に特異な能力があるということではありません。誰でも多かれ少なかれテレパシー能力をもっているのではないでしょうか。

最近はこんな体験をしました。

中学三年生のショウタ(仮名)が高校受験をしましたが、十分に力を発揮できるよう、彼が試験会場で問題を取り組んでいる時間帯に祈りの唱題をしました。午前と午後の二回祈りました。

ショウタは入試直前の模擬試験で合格ラインに達していなかったのですが、試験中は落ち着いて集中でき、力を出し切ることができたということでした。

私自身も午後の唱題で手ごたえを感じました。唱えている唱題の声が、朗々として大きくなり、ショウタが力を発揮していることを直感したのです。

ショウタは合格しましたが、その報告の際、「先生が祈ってくれていたので、安心して試験に取り組めました」と言っていました。彼が集中できたのは、事前に祈ることを伝えていたので、単なる安心感によるものかもしれません。ですがわたしの唱題が変化したことは事実で、ショウタも実際に私の祈りを感じていたようです。

距離に関係なく祈りは届く。そのようにわたしは実感しています。祈りとは「集中した強い思い」です。

冒頭の妻がわたしの思いをキャッチした話は、祈りとは無関係のように見えるかもしれません。ですが、思いが届いたという点において、本質的には祈りと同様のことであると考えてよいでしょう。

深層心理学は、個人的無意識を超えて普遍的無意識があり、この深い意識レベルでは、人はつながっていてワンネスであるといいます。心理学者のユングは、大学の最終講義で「わたしはあなた方であり、あなた方はわたしです」と言ったそうですが、普遍的無意識のレベルで、すべての人はつながっているということを言いたかったのでしょう。

祈りは「テレパシックに相手に伝わる」と表現できますが、「深い意識のレベルで相手に届く」とも表現できます。

祈ることは誰にでもできます。ですが純粋に祈るのは難しいことです。それはネガティブな感情が入り込んでしまうことがあるからです。

前回の記事で先日、世界平和の祈りをしたことをお伝えしましたが、世界平和を祈るにあたって、不安や恐れが混入したり、ある国に対する怒りや憎しみを抱いてしまったりすることもあります。

そうならないためには、自我を超えて平安のなかで祈ることが必要となります。

もちろん「世界が平和でありますように」と言葉にして祈ってもよいのですが、願いを言葉にして祈ると、どうしても自我のレベルでの浅い祈りとなってしまいます。このレベルで祈るとネガティブな感情が入り込みやすくなります。また深層意識の次元で他者とつながり、響き合うことはできません。

そこでわたしは、瞑想、仏教的に言えば禅定、三昧(さんまい)の次元に入って意識を深め、静寂のなかで無願の唱題をしています(唱題中に願いを抱いていると、意識の深い次元に入れません)。

あまり知られていませんが、唱題は禅定・三昧です(禅定がさらに深まった状態が三昧です)。

世界平和のための唱題による祈りをした際、最終的に唱題は安らかなものとなり、わたしは、意識の深い次元でウクライナやロシアの人たちとつながり、祈りが届いたと感じました。

言うまでもなく、わたし一人の祈りで世界に平和をもたらすことはできません。また、わたしの唱題の深まりは、まだまだです。ですが、唱題による祈りで、何らかの良き影響を世界に及ぼすことができたという実感はあります。

祈れることのありがたさを、今、かみしめています。