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何に祈るのか ー 南無妙法蓮華経の祈り ー

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祈りについての記事に複数の方からコメントをいただきました。今の時期、祈りに関心を抱いている人が多いようです。

祈る際は、特定の宗教を信仰していない人でも、多くの場合、漠然と人の姿をした神や仏を思い描いて祈りを捧げているのではないでしょうか。

終戦直後、多くの新宗教が興りました。その中に「電信教」という宗教があり、御祭神はトーマス・エジソンであったといいます。ビックリです。もっとも、わが国では吉田松陰東郷平八郎など、人そのものが神として神社に祀られていますから、そう驚くことではないのかもしれませんが。

ちなみに日蓮宗には、法華経を篤く信仰した、安土桃山時代の武将、加藤清正を清正公(せいしょうこう)という呼び方で、仏法守護の神としてお祀りしている寺院があります。現在、大本山池上本門寺では、清正公を祭祀するお堂を建設中です。

さて、今までの記事では、わたしがどのような存在の前で祈っているのかを明確に述べてきませんでした。わたしは祈りの際、人格神的なイメージを抱くことはありません。

わたしの祈りの対象は妙法蓮華経です。妙法蓮華経は経典(『法華経』の正式名称が『妙法蓮華経』です)ですが、日蓮聖人は、妙法蓮華経の五字は経典を示す文字ではなく、永遠の仏陀のいのちそのもの、言い換えれば宇宙根源の法であると説かれました。日蓮聖人は『法華経』を単なる経本ではなく、御仏(みほとけ)そのものとされています。

わたしは、南無妙法蓮華経を中心に、如来、菩薩等の名が書かれたれた大曼荼羅御本尊(だいまんだらごほんぞん)の前で祈っています。冒頭の写真は自室に掲げられた大曼荼羅御本尊です。その前に安置されているのは日蓮聖人座像ですが、この尊像に祈っているわけではありません。

宇宙のどこかに人の姿をした金色の光を放つ永遠の仏陀が鎮座していて、わたしたちを救済してくださるというわけではありません。ですが、あらゆるいのちをいのちたらしめている、いのちの本源、宇宙根源の法は、厳然として存在している。そうわたしは実感しています。それを仏、永遠の仏陀と呼んでもよいのでしょうが、言葉で正確に表現することは不可能であると感じています。

宇宙本源の法である妙法蓮華経に、わたしは祈っています。祈りのことばは南無妙法蓮華経です(南無とは、端的に言えば「いのちを預けます)と言う意味です)。

祈るといっても、妙法蓮華経に何かをお願いすることはありません。ただひたすら妙法蓮華経と一つになる。そのような思いでお題目(南無妙法蓮華経)を唱えています。どこか遠い所にいらっしゃる仏に呼び掛けているという感覚はありません。

法華経』は、誰もが例外なく身の内に仏性(仏としての本質)を持っていると言います。そうであるなら、仏は外に求めるものではなく、わが身の内に求めるべきものでありましょう。わが身の内にある仏としての本質を涌出させるために唱えるのがお題目であると、わたしは師から教えられました。

全身全霊で南無妙法蓮華経を唱えていると、腹の底から自ずと南無妙法蓮華経が涌き上がってくるようになりました。内なる仏性が呼び出されるといったらよいのでしょうか。南無妙法蓮華経が涌出してきます。

日蓮聖人はつぎのように言われています。

「己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経と呼び呼ばれて現れ給うところを仏とは云うなり」(『法華初心成仏鈔』)

ご本尊は自己の外に軸として掲げられていますが、それは同時に自己の内に存在するものでもあるのです。涌出する唱題。これは外なる仏に「~でありますように」と祈る南無妙法蓮華経ではありません。

釈尊は「自己を燈明とし、法(真理)を燈明とせよ」と言われました。救われるために自己の外に在る神やご自身に向かって祈れとは言われていません。

自己が仏であることに目覚めていくのが南無妙法蓮華経を唱える祈りです。「世界が平和でありますように」と祈るのではなくて、平和そのものになるのが唱題による祈りです。

この祈りこそが真に世界平和の実現につながる祈りであると実感しています。このことについては、次回の記事で詳しく述べることにいたします。