体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

世界を平和にする祈り ー 我が心の内なるプーチン ー

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昨日、テレビのニュースでウクライナにロシアが軍事侵攻する様子を視ていると、妻がチャンネルを替えていいかと聞きます。こんな時は、決して妻を批判して「君は世界情勢が気にならないのか」などと言ってはなりません。家庭内戦争が勃発します。何よりも平和が大切です。

実は妻は、ウクライナの状況に心を痛めていたのでした。辛くてニュースの映像を見ていられないのだと言います。さらには、ロシアの大統領に対しての憎しみが募るので、それも嫌で、チャンネルを替えてほしかったのだということでした。

妻は、憎しみがこれ以上深くなったら、大統領を呪詛してしまうかもしれないと言います。恐ろしいことです。わたしは、家庭平和のために、妻を激怒させぬよう細心の注意を払わねばなりません。いや、その前にしなければならないのは唱題です(そのわけは、後に述べます)。

釈尊は「怒らないことによって怒りに打ち勝て」と言われました。(『ダンマパダ』)自己や他者を傷つける行動に対して、はっきりとノーと言わなくてはならない時があります。ですがその時、相手に怒りや憎しみの心をもってノーと言えば、事態はさらに悪化することになるでしょう。

祈りの時には、酷い国と可哀そうな国といった二元対立の心を持つとネガティブな感情が生まれ、純粋な平和の祈りにはなりえません。

わたしは、唱題(南無妙法蓮華経を唱えること)による祈りをしていますが、祈りの中で何かを願うことはありません。祈りの仲間と共に世界平和の祈りをするときにも、唱題中に「みほとけよ、世界に平和をもたらしてください」願うことはありません。

それは、家庭平和から世界に平和に至るまで、平和は外に求めるものではなく、自らの内に求めるものであると感じているからです。

天台大師や日蓮聖人は、私たちの一瞬の思いの中に地獄、修羅、天、菩薩といったあらゆる世界が在り、わたしたちは常に世界のすべてとつながっている言われています。にわかには信じがたいことです。ですが唱題の道を歩んでいると、上は仏界から下は地獄界までを、私たちは心の内に具しているということが体感されるようになってきます。

法華経は』は誰もが内に、仏性、すなわち仏としての本質を持っていると言います。唱題していると、自ずとこの仏性が呼び起されてきます。また同時に、唱題していると我が内なる修羅、即ち激しい闘争心や怒りの世界に妙法(妙法蓮華経)の光が当たり、その心が癒されます。

このことは自己のはからいを超えて、妙法によって自ずと為されます。そこに自己の意図が入り込む余地はありません。それゆえ、わたしは、ただひたすら妙法と一つになる無願の唱題をしているのです。

わたしたちの心が世界のすべてとつながっているとすると(このことは、現代の深層心理学も言及しています)、我が心の中の修羅界が癒されて「わたし」が平和そのものとして在るとき、その自己の心の平和は世界の平和と即つながることになります。

唱題による世界平和の祈りをすること。それは、わたしにとって、我が心の内なるプーチンの闇を妙法の光で照らし、癒すことにほかなりません。

もとより、わたし一人の唱題でウクライナ問題を解決することはできません。しかしわたしの唱題が、わずかではあってもそこに光をもたらしているのではないかと感じています。

戦争の首謀者に怒りや憎しみを抱いてする反戦平和運動は、新たな戦争の種を蒔くこととになりかねません。大切なのは「すること」とはありません。平和そのものとして「在ること」です。

「憎しみの心を捨てずに世界平和を願っても、平和が訪れることはないのだよ」そう妻に上から目線で言えば、我が家に平和が訪れることはないでしょう。

唱題によって世界や家庭を平和にしようとするのではなく、唱題と一つになり、平和そのものの唱題を唱え、平和そのものとして在る。そのような唱題をしていきたいと思います。