体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

釈尊の祈り

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釈尊は、世間一般で言われている祈りをなさいませんんでした。弟子たちにも「祈りなさい」と言われませんでした。釈尊がなされたのは、瞑想です。

国語辞典は、「祈り」をつぎのように定義しています。

㊀〔自分の力ではどうしようも無い時に〕神仏の力にすがって、よい事が起こるように、願う。㊁他人の上によい事が起こるように、こころから望む。(『新明解国語辞典』)

ほとんどの宗教は、上記の㊀の意味の「祈り」を基盤としています。宗教をこの祈りと切り離して考えることはできません。よき事を願う祈りの無い宗教。そのような宗教に多くの人は魅力を感じることはないでしょう。しかし、初期仏教は、よき事を願う宗教ではありませんでした。

日本で仏教が繁栄してきたのは、仏教にこの祈りが導入されたからです。わたしが所属する日蓮宗のお寺では、檀家や信徒の家内安全、身体健全などを祈り、祈祷札を授与しています。

初詣で寺院に参詣して、よきことが叶いますようにとを祈らない人は、まずいないでしょう。

ですが、釈尊の教えは、本来、願いが成就することを目的としてはいませんでした。

仏教研究者の糸川裕司氏は「ただ在るだけでfulfilled」というのが仏教だと言っています。糸川氏は、このことをつぎのようにも表現しています。

ただ存在するだけ、ただ、いま・ここに在って呼吸をしているだけで、それだけで「十分に満たされている」という、この世における居住まい方。(『だから仏教は面白い』)

これが仏教ですと言ったら、「えっ、病気の平癒や、商売繁盛を祈ってくれるのが仏教じゃないのですか。じゃあ、いいです」と言って多くの人がお寺を去っていくことでしょう。

祈りたい。祈ってほしい。そのような気持ちはよく分かります。わたしは息子が大病を患って死ぬこともあり得た時、祈るような気持ちで病院で息子に付き添っていました。

ですが、唱題の道を歩んでいて、「ただ在るだけでfulfilled。満たされている」ということが実感されるようになってきました。唱題は「願いを叶えていく道ではなく、願いを超えていく道」と表現できるのではないかと思います。

最初は五分の唱題でも辛く、我慢大会に参加している気分でした。それが、しだいに唱題をしていると心が静まり、唱えている南無妙法蓮華経とひとつになり、意識の深い所とつながっていく感覚を覚えるようになりました。唱題は瞑想であると実感しました。

それは「無我なるわたし」に目覚める体験といってもよいかと思います。ただひたすら唱題していると、わたしは、年齢も性別も立場も何もない「わたし」となります。そして、みほとけのいのちが腹の底から涌出してきます。

わたしは、世界平和の祈りに参加するときも、この唱題という禅定・三昧(深い瞑想)に入り、ただ妙法(妙法蓮華経)とひとつになる唱題をしています。唱題中に世界平和を祈ることはありません。そのときの唱題はわたしが唱える唱題ではなく、みほとけが唱える唱題であると感じられます。

この「無願の唱題」は、「祈りなき祈り」と言ってもよいのではないかと思います。

無我に目覚めて、何も願わず、ただ瞑想している釈尊は「祈りなき祈り」をなされていたのではないか。そう感じます。

さて、ここまで読まれて、「『無我なるわたし』とか『祈りなき祈り』って、どういうこと?」と思われた方もあるかもしれません。この点については、次回以降の記事で、さらに詳しくお伝えしようと思います。