体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

人はなぜ祈るのか

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こんな道歌(仏の教えを説いた歌)があります。

みぎ仏左ひだりは我と合わす掌の奥ぞゆかしき南無の一声

「ゆかしき」は、「なんとなく心惹かれる。」、「懐かしい」といった意味です。古来、「右手は仏、左手は自分を表す」と言われてきました。合掌の姿は、自分が仏と一つになった姿です。

わたしは小さな子を持つお父さんやお母さんに「食事の時に手を合わせて、家族そろって『いただきます』を言う家庭に、非行に走る子どもは育たない」とよく言います。

食事のたびに、仏と一つになっていたら、非行に走る暇はないでしょう。

合掌して、怒ったり、人の悪口を言ったりしようと思ってみてださい。そのような気分にはなれないはずです。ことからも、合掌が尊い姿であることが分ります。

祈るとき、わたしたちは合掌をします。「祈る」とは、仏と一つになることであるのです。

ところが、多くの場合、人は仏と一つになるいうより、自己を仏より低い位置に置いて、仏を仰ぎ見て「仏さま、~が叶いますように」と請い願います。大多数の人は、祈りとはは神仏への「お願い」であると思っています。

今、わたしは僧侶となって、仏に請い願う祈りはしていません。合掌して妙法と一つになる祈り、すなわち唱題をしています。ですが、「お願い」の祈りを否定するつもりはありません。

大きな困難が自分の前に立ちはだかったとき、人は仏、或いは神に向かって「お助けください」と祈ります。人は救いを求めて祈らずにはいられない存在である。そう言ってもよいかと思います。それは、だれの人生にも越えがたい苦難というものがあり、それに直面したとき、人は、自己の非力さ、弱さを感じるからです。

わたしも幼い息子が大病に罹つたとき、自己の無力さを痛感しました。救いを求めて祈らずにはいられない人の気持ちはよく分かります。

初詣で家内安全を祈るレベルの祈りは、差し迫った危機的な状況のもとで、いのちがけでする祈りと比べたら、真に祈っているとは言えないかもしれません。

振り絞るような声で「お助けください」と全身全霊でする祈り。そのような祈りを、わたしは息子が病んだときにしました。

それは、仏に請い願うい祈りで、み仏と一つになる祈りではありませんでした。ですがこの祈りは、わたしが仏を求め、仏と直結していこうと願うきっかけになりました。この祈りの体験は、決して無駄ではなかったと思います。

さて、では実際に救いを願う祈りは、叶うのでしょうか。効果があるのでしょうか。

わたしが、息子が癒されることを仏に祈った結果、息子は治り、健康になりました。ですが、この祈りと治癒の因果関係を証明することはできません。

果たして神仏にお願いすれば、神仏はその願いを聞き届けてくださるのか。このことについて、次回の記事で記すことにいたします。