体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

神さまへの祈り

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神への祈りは届くのか。この問いに答えるには、どのような神を祈りの対象とするのかを明確にしておかなければなりません。

仏教では、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の、輪廻を免れることのできない六つの世界の頂点、天に棲む存在を神と呼びます。この神のことを天部の神々と言います。仏はその上の、輪廻を超えた世界にいらっしゃいます。子どもから「神さまと仏さまのどちらの方が偉いの?」と訊かれたら「仏さまだよ」と答えてください。

毘沙門天や弁財天、大黒天、鬼子母神などは、天部の神々です。龍神や稲荷神もその中に属します。天部の神々は仏法を守護する働きをしている存在です。

キリスト教イスラム教のような一神教の、天地を創造した唯一神を仏教では説きません。ですが法華経に登場する久遠実成(くおんじつじょう)の本仏、釈迦如来(永遠の仏陀)は、一神教の神と同様の存在としてイメージされることがあるようです。

さて、今回は久遠実成の本仏は置くとして、天部の神さまは祈りを聞いて くださるのか、というお話をしたいと思います。

結論から言うと、この神さまは、祈りを聞いてくれます。

稲荷神には仏教系と神道系の神があります。多くの人が狐霊を稲荷神だと勘違いしているようですが、狐霊さんは稲荷神の眷属(お使い)です。

最上位経王稲荷(最上稲荷)や豊川稲荷は仏教系の稲荷です(最上稲荷日蓮宗に、豊川稲荷曹洞宗にそれぞれ属しています)。仏教系の稲荷神はダキニ天と呼ばれる天部の神です。

神道系の稲荷神でもっとも高名なのは伏見のお稲荷さまです。伏見稲荷大社の御祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)をはじめとする神々です。

仏教系、神道系にかかわらず、稲荷神を信仰して実際に現世的な利益を授かった人は、現代でも多くいます。「それって思い込みにすぎないんじゃないの」と言う人もいるでしょうが、内藤憲吾氏の『お稲荷さんと霊験譚』などを読むと、稲荷神の霊験がにわかに現実味を帯びてくることと思います。

わたしの身近には、稲荷神を深く信仰して大きく事業を発展させているT氏がいます 。

T氏は、自宅の敷地内にお社を立てて伏見稲荷大社の御分霊を勧請し、お祀りしています。数年前、大きな台風に遭ってT氏の自宅や周囲の家々が甚大な被害を被った際、不思議なことにお稲荷さまのお社だけは一切の被害に遭うことがなく、T氏はお稲荷さまの御稜威(みいつ)、すなわち大きな力を感じたそうです。

ただし、安易に稲荷神をお祀りすることはお奨めできません。T氏は京都から宮大工を招いてお稲荷さまのお社を立ててもらったのだそうですが、その時、宮大工さんから次のようなことを言われたそうです。

「お稲荷様は間違いなくご利益をもたらしてくれる。だけれど、中途半端にまつるのなら、やめておいたほうがよい。失礼を働いて怒りに触れると、いのちを取られかねないからね」

宮大工さんは、そのような実例をたくさん見てきたのでしょう。これは稲荷神そのもの怒りではなく、眷属の霊狐さんが、礼節をわきまえない信仰者にお怒りになるということのようです。

中には霊狐さんそのものを神さまとして祀っているケースもありますが、その場合はその神さまの怒りに触れないようにすることが肝要だということになりましょう。

このように書くと、「お稲荷さまって怖い!」と思われるかもしれません。ですがわたしはお稲荷さまより人間の方がよっぽど怖いと思っています。それは人間は他者を平気で騙すことがあるからです。信頼していた人に裏切られたといった例は枚挙にいとまがありません。

しかし、お稲荷さまをはじめとする天部の神々は、絶対的に信じれば、決して人を裏切ることはありません。

自分の妻のことを「山の神」と言うことがありますが、我が妻は文字通り、神さまです。信を置き、約束を守れば、わたしを裏切ることはありません。助けてくれます。しかしわたしが浮気心のひとつでも起こそうものなら、間違いなく、わたしのいのちは無くなるでしょう。しっかり祀ろうと思います。

お稲荷さまに限らず、天部の神さまは祈れば願いを聞き入れてくださいますが、神に依存をすると、自己のたましいの成長はストップしてしまいます。宗教や霊的世界には支配と依存の構造がはびこっています。この在り方に陥ることなく仏道を歩んでいこうと、わたしは自らを戒めています(僧侶の場合は、自分が神に依存することと共に、信徒を神や自分に依存させてしまう危険性もあります)。

真摯に仏道を歩んでいれば、ご縁のある天部の神は、願わずとも加護をしてくださるようです。わたしにも身近にご縁を感じる神さまがいますが、ご加護をいただいていることに感謝しています。

我が家の山の神からは、依存しようとすると「甘えるんじゃないわよ!」と間髪を容れずお叱りを受けます。ありがたいことです。、

仏教的に言えば、仏法を守護する天部の神々は、仏の世界に至るために修行を積んでいる存在です。稲荷神の眷属の霊狐さんも同じです。わたしはそのような霊的存在とともにたましいを磨き、時には助けられ、仏道修行に励んでいきたいと思っています。

霊主体従という言葉があります。

「この世を生きる目的は、仏の世界に向かって霊性を向上させていくことであり、身体にかかわる、この世的なことは、それに従属することである」それがこの言葉の意味です。

自分のお寺に勧請した稲荷神に現世利益中心の祈りをしていた尼僧さんがいました。それは霊主体従とは逆さまの体主霊従といってもよい祈りでした。祈っていて最初は順調だったのですが、次第にいろいろな問題が生じて困ったことになったそうです。そこで、尼僧さんは自分の祈りがおかしかったことに気づき、霊主体従の祈りに切り替え、問題を乗り越えたそうです。

この話は、尼僧さんの孫である僧侶から伺ったのですが、その僧侶はこう言っていました。

「天部の神を祀るのなら、まず何よりも高き仏界を目指して修行していくことが必要です。世俗的な欲望に流されるとダメになってしまいます」

世俗の欲望を募らせてではなく、窮地に陥ったときなどに真剣に天部の神に祈ることはあってもよいと、わたしは思っています。額に汗して働きながら、天部の神に祈るのなら、神さまはその祈りを受け取ってくださるでしょう。尼僧さんのお孫さんの僧侶も同様の考えをお持ちのようでした。

ただしその前提として、自ら立って、たましいを磨くという自覚と覚悟が必要である。そうわたしは考え、そのことを周囲の人にお伝えしています。