体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

わたしって何?

僕って何だろう?。そんな疑問を持った中学生の男の子がいました。

「お母さん、僕って何なの」

「あんたは、わたしの子。男の子で○○中の生徒でしょ。そんな当たり前のことを聞くなんて、あんた、どうかしちゃったんじゃないの」

「お母さん、それは僕の性別と所属で、ぼくそのものじゃあないよ」

「それはそうだけど・・・。そんなどうでもいいこと考えてないで、はやく宿題をやってしまいなさい」

この男の子の抱いた「わたしとは何か」という疑問は、仏教の世界では、決して「どうでもよいこと」ではありません。最も大切な疑問と言ってもよいでしょう。わたしとは何か。このことを見究めることを「己事究明(こじきゅうめい)」と言います。

いったい「わたし」とは何なのでしょう。無から生まれて、百年ほど生きて、また無の世界に消滅していく存在なのでしょうか。だとしたら、悠久の歴史のなかで、夜空に一瞬輝いて消える、打ち上げ花火のような、はかない存在が「わたし」だということになります。

法華経は、わたしたちの本質は仏と異ならないと言います。であるとすれば、本当のわたしは、形とか名称を離れ、生死を超えた永遠のいのちであることになります。これは、にわかには信じ難いことですが。

法華経は、「あなたたちは本来、仏なのだ」というメッセージを発しています。「あなたは仏」これはわたしたちすべてに向けられた、法華経の最重要メッセージです。

あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、何回も失敗をしでかして、六十数年わたしは生きてきました。自分に愛想をつかしたこともあります。自分の本質が仏であるなどとは簡単には思えませんでした。

ですが、唱題をしていると、腹の底からこんこんといのちの水が涌出て来るような感じがするようになりました。

地位とか経済状況とか容姿とか肉体いった、いつかは失われる、この世的なものを超えた、生き通しの大いなるいのち。それが「わたし」であると、唱題をしていて実感されはじめたのです。

「僕って何だろう」という疑問を持った中学生の男の子。それは実はわたしでした。

この疑問を持った後、仏教と出会って、「人の本質は仏である」という教えを知りました。ですがそれは、ただ頭で知っただけのこと。ようやく最近、唱題の深まりに伴って、このことがたましいで得心できるようになった気がします。随分と時間がかかりました。

とは言っても、相変わらず、わたしは妻と口喧嘩をしたり、机の脚に足をぶつけて「イテーッ」と叫んだりしています。

ですが唱題をしているときのわたしは、日常のわたしではなく、それを超えた、内なる御仏(みほとけ)と一つになったわたしです。

わが唱題は日常の我(われ)が唱える唱題にあらず。我が内なる仏が唱える唱題なり。

それが唱題中の感覚です。

24時間、唱題時と同様のモードでいられたらよいのですが。道はどこまでも続いています。