死んだ人を「仏さん」と言うことがあります。死ぬことを「成仏する」と言うこともあります。仏とは一切の執着から解き放たれた存在。では死んだらすぐに、その仏に成ることができるのでしょうか。そうであるのならよいのですが。
死とは、永眠。夢も見ることもない永遠の眠りだと考えている人も多くいます。だとすれば、なにかに執着する思いも、みな消えてしまうのですから、それは成仏と同様なものであると言えるかもしれません。
九十歳で亡くなった母が「死んだらどうなるのかしら」と私に訊くことがありました。
「肉体が無くなっても『わたし』という意識は残っている。ぼくは、仏道修行をしてきてそう確信している」
わたしは、この答えをどれほど繰り返して母に言ったか知れません。それは母は認知症を患っていて、10分前に自分がした質問を忘れてしまうからでした。
わたしが「死後も人は生きている」と言うと、こんな会話が繰り返されました。
「まあ、そうなの、だったら先にあの世に行った人たちと会うことができるかもしれないわね。よかった」
「でも、孫が病気にでもなれば、あの世から大丈夫かしらと心配し、僕が失敗をしでかしたら、やきもきしているということもあるかもしれないよ」
「それもそうねえ」
「ひょっとしたら、永眠の方が楽かもしれないよ」
さて、永眠を願っている方には、残念なお知らせがあります。「死後の生」を肯定する医師や科学者が近年増えているのです。
脳神経外科医のエベン・アレグサンダーはその一人です。アレグサンダーは、自らの臨死体験を通して、臨死体験は決して脳が生み出した幻覚ではないということを詳述しています。関心のある方は、彼の著書『プルーフ・オブ・ヘブン 脳神経外科医が見た死後の世界』をお読みになってみてください。
欧米では170年以上も昔から、真摯な死後の生についての科学的な研究が行われてきました。名探偵シャーロック・ホームズの生みの親、コナン・ドイルは、この研究に強い関心を示していた、高名なスピリチュアリストです。
スピリチュアリストとはスピリチュアリズムを人生の基盤としている人のこと。スピリチュアリズムとは、死後も人の個性は存続し、その個性と交流することは可能であるという立場をいいます。
今の日本の浅薄な「スピリチュアル」とは異なって、欧米は、長きにわたって、真摯に死後の生の可能性を探求する科学者を輩出してきました。タリウム元素の発見などで世界的に名を知られているイギリスの化学者、ウィリアム・クルックスやノーベル賞を受賞したフランスの生理学者、シャルル・リシェはその例です。
母は一昨年の12月に亡くなりましたが、わたしは母の葬儀を終えた直後、霊的な知覚能力を持つ、いわゆる霊能者と呼ばれる男性と会う機会がありました。彼は、会話中に、鉛筆で一枚の女性の顔を描いてわたしに示しました。
「この絵の方が、今あなたの傍にいます。お母さんですね」
その絵の顔はわたしの母にそっくりでした。彼には母が死んだこと話していませんでしたし、彼は母に会ったことはなく、母の写真を見たこともありませんでした。
続けて彼はこう言いました。
「お母さんがご自分の葬儀の時、会葬者の一人一人のところに行って、ありがとうございますと頭をさげているのが視えました。律儀な方だったのですね。あなたがお経を読んでくれているのを見て、嬉しそうにしていましたよ」
たしかに母はそのような人でしたし、わたしは心を込めて母に読経しました。
この話をどう取るかは読者にお任せしますが、わたしにとっては「やはり死後も人は生きているのだ」と改めて実感した貴重な体験となりました。
その後、わたしの修行の師、斉藤大法上人と唱題をした時に、大法上人はこう言われました。
「今日は、小島上人のお母さまがおいでになっていたようですね」
その時の大法上人の唱題の声は、澄んで女性的で、穏やかなものでした。唱題によって母は安らぎをえたのだろうと感じました。
誤解なきように申し添えておきますが、大法師は霊能者でも霊媒でもありません。唱題の声が変わるのは、妙法の成せるわざであるのです。そこには一念三千の法というもののはたらきがあるのですが、詳しいことは、また別の記事で記すことにいたします。
霊能力に憧れて大法師の下で唱題をしても、霊能力は一切つきません。霊媒にもなれません。このことを付記しておきます。
死が永眠であるのなら、死後のたましいを慰霊し、浄化を祈念する供養は必要のないものとなります。遺族の心を慰め整理するするためには必要であるかもしれませんが。
ですが、わたしは、死とは永眠であるとは思えません。みずからの唱題中に亡き人の思いを感じることもあります。そして亡き人のたましが、すぐに浄化して仏と成ることは、ほとんどないとも感じています。
これからも修行を深め、僧侶として、たましいの救済と言うこともできる、たましいの供養を、さらにさせていただきたい。そうわたしは願っています。