体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

幸福ってなんだろう?

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昨日、東横線自由が丘駅のホームでのことです。白い杖を持った目の見えない10代の男の子が母親であろう女性の手を握って、笑顔で楽しそうに話をしているのを見かけました。

男の子は、明るくて前向きなき雰囲気をまとっていました。目が見えないという自分の境遇を受け入れて、精一杯生きているように感じました。

わたしの教え子で「僕は人生で三回も大きな失敗をし、生きていくのが辛いです」と暗い顔で言う高校一年生がいました。三回の大きな失敗とは、小学校、中学校、高校と三回受験し、そのどれも第一志望校への合格を果たせなかったというものでした。

視覚障害者でありながらも、明るく生きている少年と、三回の受験の失敗を引きずって、暗い顔で生きている少年。幸福ってなんだろうと考えていると、この両者のことが頭に浮かびました。

障害があってもなくても、第一志望校に受かっても落ちても、今ここに、誰もが「いのち」として在ります。いのちの無い人はいません。このいのちそのものを慈しみ輝かす生き方。幸福な生き方とは、そのようなな生き方ではないでしょうか。白い杖をついた少年は「いのち」を輝かせて生きているように感じられました。

先日、出かける途中、道端に咲いているタンポポの花を見かけ、その後、花屋の店頭で鉢植えの蘭を見かけました。それぞれが、一つの「いのち」として、いっしょうけんめい咲いていました。そのいのちに価値の高下はありません。ですが人は、タンポポは金銭的に何の価値もない小さな花、蘭は高価で立派な花であると見なしています。

ですが、それは人間が勝手に付けた価値。いのちそのものに価値の高下はありません。人は、健康であるかないか、身体に障害があるかないか、学歴があるかないが、容姿が美しいかそうではないか、経済的に豊かであるかそうでないか・・・そのようなことで価値づけをして、価値あるものを持っているのが幸せ、持ってなければ不幸と感じて生きています。

困難に遭遇した時、「いのちがあるだけで丸儲け」とか「失敗しても死にゃあしない」と言って、自らを勇気づけている人がいます。確かにそう思えば生きる力が涌いてくるでしょう。いのちより大切なものはありませんから。

ですがそのような人が病に罹り、医師から「あと数か月しか生きられません」と宣告されたら、その状況についてどう思うのでしょうか。「死にゃあしない」とは言えません。

「寿命」、「生涯」という意味で、わたしは「いのち」と言う言葉を用いていません。「万物を生かしている根源的な力」「ただ一つのよりどころ」それがわたしの言う「いのち」です。このいのちは、死んで無くなるものではありません。肉体を失った後も永続します。このいのちに目覚めれば、肉体の死に臨んでも「死にゃあしない」と言い切れます。生きる力が涌いてきます。

万物は、この「いのち」の現れである。唱題修行をしていて、わたしはそのように感じるようになりました。この「いのち」は、「本源のいのち」と表現してもよいものです。

「本源のいのち」とは、仏教の言葉で言えば「空」です。「空」は多くの仏教書で「実体のないこと」と解釈されています。ですがわたしは、万物を万物たらしめているエネルギーと言ってもよい「本源のいのち」こそが空であると解釈しています。

『般若心経』の「生ぜずして滅せず、垢つかずして浄からず、増さず減らず」は、「空」すなわち「本源のいのち」がどのようなものであるのかについての説明です。

「空」すなわち「本源のいのち」は、「~である」と断定できず、「~ず」と否定でしか言うことができません。『法華経』ではこのことを「一切の語言の道(どう)断(た)え」(「安楽行品第十四」)と言っています。どんなに言葉を尽くしても正確に表現する道が断たれているのが「空」すなわち「本源のいのち」であるというのです。

法華経』には「諸法(あらゆる存在)の空であることを聞きて、心大いに歓喜し」(「薬草譬品第五」)という言葉もあります。これは本源のいのちに出会った喜びを言ったものです。(これを「諸法が実は実体がないということを聞いて」と解釈したのでは「それで大いに歓喜することはないだろう」ということになりますよね)。

わたしたちは、「いのち」の上に乗っかった様々なこの世の価値観を重視して生活しています。健康でありお金があるのはありがたいことです。健康、お金の価値は大切にすべきものでしょうが、健康もお金も、いつ失われるか分からないものです。ですが病んでも貧困状態になっても、永遠に失われることのない「本源のいのち」とつながっていれば、常に喜びの中に生きることができます。

三回受験に失敗した少年は、学歴という価値観を握りしめて、生きる力を弱らせていました。いっぽう、目の見えない少年は、健康(五体満足)という価値観に縛られず、生きる力を輝かせているようでした。私には、彼が「本源のいのち」とつながった素敵な生き方をしているいるように見えました。

この世の価値観を認め、かつそれに縛られず、「空」すなわち「本源のいのち」とつながって生きる。そのような生き方をすることが幸福であると感じています。

「本源のいのち」とのつながりを強めていくのが唱題です。