体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

いのちに目覚める ―「怪しげな本」と出会って ―

今、書棚から『超念波 ー運命開発の最高峰ー』という書物を引っ張り出してきました。なにやら怪しげなタトルの本です。表紙には「死人が蘇生、子宝に恵まれる、選挙は必ず当選・・・」などと記されていて、いかがわしさが漂っています。

妻は、雑多に本が並んでいるわたしの書棚を見るたびに、「くだらない本はブックオフに売ってしまいなさい」と言います。この本は、妻が書名を見たら、間違いなく「売却指定」するであろう本です。

ですが、わたしはこの本を、昭和62年に購入して以来、35年間売却することなく、書棚に大切に保管してきました。

著者は古内栄一。ペテン師、ニセ霊能者ではありません。井上日召の弟子で小学校の教師をしていた人です。昭和史に詳しい方はご存じでしょうが、井上日召は、テロ集団、血盟団の盟主として、昭和7年に前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長・團琢磨(だん たくま)の暗殺を指導した人物です。

茨城県大洗町立正護国堂の住職をしていた日召は、徹底的に唱題をしていました。弟子の古内も、日召から「南無妙法蓮華経とは何か? 解るまで命がけで唱え抜きたまえ」と言われ、師の日招と同様に全身全霊でお題目を唱えました。

わたしは井上日召を狂気の人だと思っていましたが、弟子、古内の本を読んで上記のような事実を知り、さらには日召が理性的で私心なく、慈悲心のある人物であったことを知り、驚きました。

古内は師の日召の下で血盟団事件に関わり、刑務所に入ることとなりますが、そこでも、まさに命がけで唱題をしました。その結果、古内は独居房の中で、ついにお題目の正体が解ったといいます。

「何もかもお題目だ。手も足も、寝台も壁もいや全宇宙がお題目ではないか。私は寝台の上に端座して、静かに《南無妙法蓮華経》を声なき声で唱えてみた。ああ本当に気持ちがいい。まるで重い肩の荷が降りたようだ」

古内がお題目の正体が解って欣喜雀躍し、狭い独居房の中を跳ね回ったときの思いを綴った文です。。

南無妙法蓮華経は表面的には「妙法蓮華経に帰命します」という意味だが、その真実は本仏(永遠のブッダ)のいのちそのものである。

それが日蓮聖人の教えですが、古内はこのことを、頭でではなく、唱題する中で体解したのでした。

わたしは、前回の記事『幸福ってなんだろう?』で「万物は本源のいのちの現れである」と記しました。「本源のいのち」は「本仏のいのち」と呼んでもまったく差し支えありません。

「本仏のいのち」は、《南無妙法蓮華経》に他ならない。南無妙法蓮華経と唱えることは、その「本仏のいのち」と一つになることである。

古内はこのように実感したのです。わたしも同様に感じていますが、35年前に古内の本を購入した時は、このことがよく解りませんでした。今は「全宇宙がお題目ではないか」という古内の言葉に深く頷くことができます。

わが修行の師、斉藤大法上人は「お題目さま」と言われることがあります。お題目・南無妙法蓮華経に「さま」を付けるのは、一般的に言えば変かもしれません。ですが南無妙法蓮華経が「本仏のいのち」であるなら、「さま」を付すことが首肯されるでしょう。

わたしが、『超念波 ー運命開発の最高峰ー』を長年大切にとっておいたのは、よく解らないながらも「何か重要なことが書いてあるようだ」と感じたからと言ってよいと思います。

わたしは唱題をしてきて、次のような思いでいます。

偉い人も偉くない人も、病気の人も健康な人も、豊かな人貧しい人も、だれもが本仏のいのちの現れである。だれの心の中にも、こんこんと涌き出るいのちの泉がある。この泉の水は、本仏のいのち。唱題でこの泉とつながる時、永遠に渇くことはなくなり、平安と喜びの中で生きることができる。

本仏のいのちの他は、無常なるもの。必ずいつかは消えていく。だが本仏のいのちは、永遠に消えることなく在る。であるがゆえに、本仏の現れであるわたしも、在りて在るものである。

唱題が深まれば深まるほど、この思いは深まっていきます。

さて、『超念波 ー運命開発の最高峰ー』には、さらにお伝えしたい、にわかに信じがたい内容も書かれてあるのですが、このことは、また別の記事で記すことにいたします。