体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

お題目の真髄・その2 ー 仏の子であることに目覚める ー

前回の記事で、次のように記しました。

「娑婆即寂光」を身体(からだ)で受け止め、それが身に染みるようになったのは、令和元年の12月、斉藤大法上人のもとで唱題をしはじめてからのことです。

「娑婆即寂光」とは、以下の日蓮聖人の『観心本尊抄』の言葉を五文字に凝縮したものです。

法華経の本門如来寿量品において、私たちの住むこの世界は、火災・水災・風災に脅かされることもなく、成立し、変化して破壊され、無に帰するという宇宙の循環をも超えた、変化することのない永遠の浄土浄土であることが説き明かされました。そこに在(ましま)す釈尊は、過去・現在・未来において消滅を示すことはなく、その釈尊の教えを受ける私たちも釈尊と一体ですから、同様に消滅を超えているのです。

(日蓮宗宗務院・伝道部訳)

法華経・第十六章の如来寿量品に基づいて、日蓮聖人は、「目覚めればこの世は永遠の浄土である」と言われているのです。

幾多の法難に遭い、死と直面してきた日蓮聖人の生涯は、平安とか安穏といったものとは程遠いものでした。その厳しい人生のなかで、聖人はこのように言われたのです。

汚泥に満ちたこの世にあって、日蓮聖人は、一切、泥に染まることなく清らかに、寂光土を生きられました。それは、わたしのような凡人には到底、不可能なことである。そう思っていました。

ところがなのです。大法上人のもとでお題目を唱える修行をはじめてから、外的環境とはまったく関係なく、言い換えれば外的環境に一切、依存することなく、平安と生きる力を感じるようになってきたのです。

そのお題目は、外に向かって朗々と「これがお題目だ」と唱えるお題目でも、何かを祈願するお題目でもありません。どこまでも内に向かって深められていくお題目です。それはご本尊をただ奉るのではなく、ひたすらご本尊と一つになるお題目です。

このお題目でわたしは、自己のいのちの真実に目覚めることができると実感しました。

いのちについて大法上人は次のように言われています。

「わたしたちの いのち もまた大海の変化し続ける波濤のひとつ。いつしか大海に戻る。そもそも大海から来たのだから。波濤だけが独立していることなどあり得ない。今は、大海のこの波濤を生きている」

ご本尊とひとつになる唱題を実践する前、わたしという波濤は大海(ご本尊・本仏)と分離していて、大海の生命力とつながっているとは思えませんでした。それが唱題により、大海の生命力とわが身のいのちが一つである感じるようになりました。唱題をしていると、こんこんと本仏のいのちが湧き上がってくることを感じます。

さらに大法上人は、次のようにも言われています。

「お題目には、言葉にも形にも表せない無限の悟りの功徳が包み込まれているというのに、改めて何を願うというのだろう。南無妙法蓮華経とは、そういうものです。一つの波濤(限定されたもの)は、大海(無限なるもの)に含まれる」

わたしたちは日常、個々のいのちを、別々に切り離されたものと感じ、優劣を競い合い、傷を深めています。ですがが唱題をしているうちに、「わたし」が無限なるものの一部であることを感じるようになり、癒されはじめました。

この癒しが進むにつれて、わたしの唱えるお題目は、ときには獅子が咆哮するような大音声(だいおんじょう)のお題目となることもあるようになりましたが、それは慈悲に満ち溢れたものです。そのようなお題目が自己の計らいを超えておのずと湧き上がってくるようになったのです。

わたしたちは誰もが仏の子であって、ぐれようが絶望しようが、いかなる時も本仏の慈悲の中にある。そう法華経は説いています。ご本尊と一体になる唱題をすることによって、わたしははじめて、このことを頭ではなく身体で受け止められるようになりました。

将来、しっかりと修行すれば、仏の子にしてもらえるというのではありません。「あなたは、今すでに仏の子であるのです」というのが法華経のメッセージです。わたしは、そのことを唱題をとおして噛みしめるようになりました。

とはいっても、わたしの仏子としての目覚めは、まだまだ浅いものです。妻から「あなたアホね」と言われれば腹が立ちますし、実際にアホなことをしでかして落ち込むこともあります。

ですが、唱題修行を続けることによって、「わたしは仏の子である」という自覚は揺るぎのないものとなっていくであろうと感じています。

仏の子であるという「わたし」の真実に目覚めるのが、お題目の真髄である。そう、わたしは実感しています。