体験する仏教  

ずっと、ずっと求めていたブッダの智慧

埋葬文化とあの世の真実

一昨年亡くなった我が家の愛犬は、庭の片隅に深く穴を掘って葬りました。人間はそうはいきません。役所から埋葬許可証を得て、法的に定められた墓地に埋葬しなければなりません。人骨を遺棄したり、庭に埋めたりしたら、法的に罰せられます。

時々、電車の中に、骨壺の入った箱の忘れ物があるそうですが、そのほとんどが持ち主からの申し出がないとのこと。故意に電車の中に置いて去ったのでしょう。

納骨をし供養するのには費用が掛かります。その負担を負えない、あるいは負いたくない人もいるのでしょう。家の押し入れの隅に遺骨を置いている人もかなりの数いるようです。

最近は孤独死する人が増えていますが、その遺品整理をしていると、遺骨が出てくることがあるそうです。

多摩川の河辺にはマンションが林立していますが、わたしは、電車で多摩川を越えるとき、「あのマンションの少なからぬ家にも遺骨が眠っているのだろうな」と思うことがあります。

さて、本来の仏教の価値観からすると、仏舎利釈尊の遺骨)でもない限り、遺骨は特別扱いするものではないのです。釈尊の生誕の地であるインドでは、ガンジス川に焼いた遺体を投げ入れています。インドでは、死後、人は輪廻するという思想(釈尊もこの思想を受け入れていました)の下で遺骨が重視されることはなかったのです。

遺骨を大切にするのは日本の埋葬文化の特質であると言えるのですが、文化は変容していきます。近年は海洋散骨を希望する人も出てきています。

文化は変わりますが、真実は不変です。その真実とは、死後、人は夢も見ない永遠の眠りにつくのではなく、意識は存続していくということです。「死後も人は生きる」というのは物語ではなく、厳然たる真実であるという認識を、わたしは唱題修行の結果、持つに至りました。この認識のもと、僧侶として法要で読経、唱題をしています。

わたしが、今、心を痛めているのは、遺骨をぞんざいに扱う人が増えているということではありません。死んだらすべては無となると考えて、亡き人へ感謝して「高き世界へ往ってください」という祈りをしない人が少なからずいるということです。

近年、葬儀の形態は大きく様変わりしています。病院で亡くなった後、法要もお別れの会もせず、火葬場に直行する直葬(「じきそう」または「ちょくそう」と読みます)が都心部では増えています。

火葬炉の前でのみ、僧侶に読経を依頼するケースもありますが、それすらないこともあります。「仏式の葬儀は、荘厳かもしれないけれど、形にこだわって経済的な負担を増やすこともないだろう」と考える人が、特に新型コロナが蔓延してから増えているようです。

その根っこには、「死んだら意識は無くなるのだから、慰霊とか供養のための儀式は不要」といった思いがあるのでしょう。形骸的な供養の儀式はなくてもよいけれど、慰霊、供養の祈りが失せれば、この国は荒廃していく。わたしはそう感じています。

埋葬文化はこれからも変わっていくことでしょう。ですが「死後も人は生きている」という真実は不変であり、どんなに時代が変化しても、このことを踏まえて亡き人と向き合うことが大切であると思っています。

自然災害などで亡くなった方の遺骨が見つからない場合があります。遺骨を特別視する文化を大切にしている方にとっては辛いことでしょう。ですが遺骨がなくとも、間違いなく、わたしたちのあの世の人への思いは届きます。その思いによって必ず亡き人は癒されます。読経、唱題で、御霊は高き世界へと導かれていきます。この真実を知っていただきたいと思います。

昔は結婚をするにあたって仲人(なこうど)を立てるという文化がありました。ですが、今は仲人を立てないことがほとんど。仲人を立てなければ、あるいは、立派な挙式をしなければ、幸せな結婚生活ができないということはありません。

婚礼でも葬儀でも、大切なのは人の思いです。形ではありません。亡き人をあの世に送るにあたっては、その人への感謝の思いをもって、その人がこの世の囚われから解放されて、清らかな世界へと昇っていくことを願う祈りが何よりも大切でしょう。

あの世を認める高齢者から「お布施をたくさん出せば、故人は速やかにお浄土に往けるのでしょうかね」と訊かれたことがありますが、それは違います。これは経済至上主義が生んだ文化の誤りです。

わたしは遺族の祈りに寄り添い、遺族と共に御霊(みたま)が安らぎを得られることを祈って読経、唱題をさせていただいています。